遅ればせながら「風立ちぬ」を見て

日本との時差

ニュージーランドに住んでいると日本のことと時差が生じます。映画やドラマなどはその典型でしょう。

もっと早く見ることもできたのですが、ついついうっかりしていました。このうっかりすると言うことも、日本にいないと言うことなのです。なぜならば、日本にいるとマスメディアがこぞって教えてくれますが、ニュージーランドではそれがないと言うことです。

ネットのニュースを見れば見えるのですが、それには、こちらからの能動的な行為が必要となります。日本だと、聞きたくなくても、聞くつもりがなくても、入ってきます。

さて、「風立ちぬ」の感想です。何にも感じることのない映画には、自分の時間を費やして書くことはありませんので、いろいろと感じることがあったと言うことです。この側面をみても、みる価値のあった映画だと思います。

 

「風立ちぬ」の感想

この映画が表現しないこと

話の流れの中で、日本の歴史上たいへん貴重な場面が登場します。それは、その場にいたものにとっては、たいへん痛ましく、苦痛に満ちた時であったでしょう。この映画では、そのような人びとの苦しみをあえて表現していません。主人公にも、その時の動揺、嘆き、悲観などの感情を表現させていません。これは、監督の選択であったのだろうと思います。

ここで、この場面をどのように理解できるのかにおいて、見ている人の年齢、知識、経験などの背景が大きく異なる可能性があると感じました。たぶん、自分の子どもに見せても、関東大震災、思想犯、ゼロ戦、ドイツとの関係などのことに照らし合わせてみることはできないと思うのです。

戦前から敗戦を向かえたことは、日本人として、大きなことでした。これを、民族的トラウマという表現をあてはめることができるぐらい、大きなことでした。ただ負けたのではないのです。日本人は、負けたという事実よりも、なぜ負けるような戦いを始めたのだろうかという、自国民に対する大きな懐疑心を抱えることになったのです。

この映画では、表現していること、つまり、プロット、映像、音声、音楽をどのように理解するのかという点だけでは不十分だと思うのです。それは、この映画は、どの部分を語っていないのかに思いをはせる必要があるのだと思います。

すると、この映画の可能性がもっと広がります。たぶん、若くしてみるとき、人生経験を積んだ後で見るとき、歴史を学んだ後で見るとき、堀越二郎の伝記を読んだ後で見るとき、この映画があえて表現してないことをくみ取れることができるのだと思います。

 

エンジニアとしての話

私は、電子工学を学びましたし、エンジニアとして仕事をしていたこともあります。

主人公が図面を見て、頭の中で実際に飛行機を飛ばし、その飛行機がどのように飛ぶのかを思い描くシーンが随所にあります。

シミュレーションのない時代に、エンジニアの資質として欠かすことができないものだったのではないかと思いました。自分の描いた図面が実際にどのような形になるのか、負荷をかけられたときにどうなるのか、全体として、どの程度もつのかについて、想像力がしっかりと働かない人は、新しいものを作ることはできないのでしょう。

日本の技術が劣っていると痛感していた時代が長く続きました。若い世代の人は、日本の車の方が外車よりも安心だし、優れていると思っているかも知れませんが、そのような感覚を持てるのはここ20年程度のことでしょう。スカイラインがポルシェを追い抜いたときの感動がどの程度のものであったのか、今では想像もつかないでしょう。実際、日本の技術は、劣っていたのです。それは、実践の場では痛感させられ続けていたのです。

それでも、何とか自分たちで何とかしなければならないという時代でした。

平和な時代はこのように考えません。今、ニュージーランドに住んでいますが、何でも自分たちの手でするという気風はありません。世界のどこかで、新しく、賢い技術を開発してくれば、それを持ってくればいいとぐらいにしか考えていないのです。

しかし、以前はそんなことはできなかったのです。猿まねと言われようが、先進国は最先端の技術を売ってもくれないし、売ってくれるとしても高すぎて買えなかった。

なので、工夫し、何とか妥協して、全体のシステムを作り上げるという難題に挑むしかなかったのです。たぶん、起きても寝ても、そのことだけを考え続けたエンジニアがたくさんいたと想像できるのです。

そういう時代でした。そして、その工夫を採用していこうという気風がありました。その工夫次第では、可能性があると信じることができた時代だったのでしょう。

結核の話

1944年にワクスマンらがストレプトマイシンを開発する前は、結核は不治の病でした。治療方法は、養生するしかなかったのです。

ヒロインが何とか治してみせると、言うとき、この時結核とはどのような病気だったのか知っていると、泣けます。治りません。すでに吐血している以上、病気も進行もしているのでしょう。

その時代の人びとは、そのことをある程度理解していたのだと思うのです。治らないのを知っていて結婚する、そして、一日一日を大切にするしかなかったのです。知っていて、そのように言っているのだと、理解すべきことなのでしょう。

 

主人公の淡々とした語り口

今、いろいろな国の人たちと話す機会があります。国によっては、身振りも大きく、日本人から見れば誇張した表現を好むと感じるものです。日本は、何が起こっても、この主人公のように冷静に、淡々と、それでいてそのことに集中して取り組むという人たちがいることができる文化なのではないでしょうか。そのような人を受け入れてあげられる、さらに、そのような人の価値を見出せる文化なのではないでしょうか。

最後、夢の中の平原で、地獄を見ているようでした、と冷静に語るとき、私は泣けました。ゼロ戦がどのような経緯を辿ったのか知っていたからです。私には、主人公の苦悩、嘆き、悲しみの表現は必要ありませんでした。その場にいる人は、あまりにも大きな精神的な苦痛のために、生半可な表現では不十分だと感じるときがあるのです。

表現されたものと、内面で感じられているものは、違いが常にあるのです。日本人は、語られたものが、すべてであると、理解するほど単純な民族ではないということなのでしょう。

よい映画でした。

 

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