ドキュメンタリー映画「小さき声のカノンー選択する人々」

「小さき声のカノンー選択する人々」

このドキュメンタリー映画は、福島原子力発電所の事故によって生じた放射能汚染から子どもたちを守る福島の取り組みについてのものです。その際に、25年前に起こったチェルノブイリ原発事故の現状を踏まえながら、福島を考察していきます。

2月6日にニュージーランドのオークランドで上映会を開催するので、事前にDVDをお借りして見てみてみました。わたしが担当する30分から1時間ほどのセッションを担当するアイディアを練るためです。

映画の感想

まず、放射能汚染について、わたしがあまりにも情報をキャッチしていなかったという思いが募りました。これほど土壌の汚染がひどいとは知りませんでした。福島の原発が爆発した時に想像したことが当然のことながら起こっているのです。そのため、これが異常であると感覚を持つ人々にとっては、日々の暮らしが大変ストレスに満ちたものであることを垣間見ることができました。

映画の中で「保養」という言葉が使われています。どのようなことか、最初をうまく理解できませんでした、映画が進むに連れてその意図と効果がわかってきます。一見、「保養」が一時しのぎではないかと思ったのですが、さまざまな事情でその場を離れることができない人々にとっては、大変重要なことになるのですね。

「保養」とは、放射能のレベルが高い場所を離れ、一ヶ月かけて体内から放射物質を体内から取り除く試みです。それが必要な子どもたちは、福島の子どもたちだけに限りません。関東の子どもたちからも、かなりの放射物質が検出されているというのです。現地から離れた場所で、このような機会を提供する場所がもっと出てくれたらいいなと思うところでした。この試みは、チェルノブイリでも行われています。

2時間の映画ですので、いろいろと考えること、大切な情報、福島の人々を知ることがができます。ただ、わたしの想像ですが、それでも製作者たちは、この映画で語り尽くせたとは思っていないのではないのでしょう。それよりも、この映画が、何らかの会話の始まりになってほしいと思っている気がしています。わたしのファシリテーションでは、この映画を受けた会話を促進するように努めます。

ドキュメンタリー映画の価値

このようなレポタージュが、ドキュメンタリー映画という形式としなければいけないのかというと、テレビなどのメディアが報道しきらないからなのでしょう。

メディアは、自分たちではない第三者が、本来必要なことをいってくれるのを待っているのか、と勘ぐりたくなります。自分たちの口からは伝えられないことに対して、もっと恥を知るべきなのだと思います。これができないのであれば、メディアから「報道」を分離し、娯楽提供機関という地位に落とすべきだと思ったりします。

この映画をより多くの人に見てもらいたいと思いますし、この映画をスタートしていろいろな会話を紡いでいけたらと思います。この映画を見るときにわたしの友人と一緒に見たのですが、いろいろなことを語ることができました。

今後、この件についてわたしが何かできることがあれば、前向きに考えたいと思います。

近くで上映会があるのであれば、見過ごすことがないようにしてください。また、自分で自主上映会を検討されているのであれば、サイトから問い合わせ見てください。

http://kamanaka.com/canon/

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