倫理21 (平凡社ライブラリー)
平凡社 2003-06 |
「道徳」的とは何か、また「倫理」とどのように違うのか。そして、その事を考察することによって見えてくる「責任」とはいったい何であろうかということを、探求していった書物であると感じました。
特に責任ということに関して、日本の特殊性を言及します。それは「親の責任」と呼ばれるものです(18頁)。親の責任を当事者以外がどのように認識し、どのような論旨を組み立てて、親の責任を追及していくかについては、それが特殊なものであると言うことを説明していきます。
法的には無罪であっても、道徳的には責任があるということがあります。国家が法的に罪を追求するとしたら、道徳的に罪を追求するのはいわば共同体です。その意味で、道徳は、共同体が存続するための規範であるということができます(21頁)
この共同体で、重要な役割を担っているものとして「世間」をあげています。この模様を描いた文学として、円地文子の「食卓のない家」をあげています。息子が連合赤軍のような事件で捕まった時その親がどうするかという主題を扱っていると言うことです。「この父親が謝罪もしないし、辞職もしない」。「世間から、そして妻や娘から無責任だ、冷酷だと言われます」。しかし、柄谷の視点から見ると、
彼(父親)はきわめて「倫理的」です。この父親は、息子がやった行為を指示しないけれども、息子が責任を取りうる(自由な)主体としてあることをあくまで認めようとする(36頁)」
責任というものを明確化する際に、ヤスパースの戦争の罪に対する論旨を取り上げて説明しています。
1.「刑事上の罪」 法律の違反
2.「政治上の罪」 これは「国民」一般に関係します。近代国家においては誰もが政治的に行動している。少なくとも選挙の際の投票または棄権を通じて政治的に行動している。
3.「道徳上の罪」 法律的には無罪であるが,道徳的には責任があるというような場合。たとえば,自分は人を助けられるのに,助けなかった,反対すべき時に反対しなかったとき。
4.「形而上の罪」 たとえば,ユダヤ人で強制収容所から生還した人たちはある罪悪感を抱いた。「なぜ自分がここにいて,あそこにいないのか」
責任というものの性質上、柄谷はすべての責任が形而上的であるとしていますが、この区分の有効性を示しています。この区分をしっかりと理解しておくことは、メディアで不用意な責任論を聞くときに重要になると思います。
個人的には、すべてを理解したとは思いませんが、柄谷行人の論旨に非常にしっくりいくのを覚えています。足金読んだ中ではお薦めの本です。