「不登校」と言う言葉に向き合っているとその原因の多様さに気付きます。しかし、興味深いところは、いろいろな原因によって不登校になったとしても、その原因を追求し、その原因を取り除くことが、登校再開の鍵とは必ずしもならないような気がしています。
たとえば、友人関係のトラブルで学校に行くことが難しくなって、1~2週間休んだとしましょう。このようなときに、その友人との仲直りがあったとしても、 再び登校することは容易なことではありません。これは、ある原因でもたらされた学校に行かない状態が、その原因よりも重くのしかかってしまうからと考えら れるときがあります。「学校に行っていないと言うこと」そのことが、重くのしかかってくるのです。
特に、日本のように「和」を好み、「異質」を排除する傾向が強く感じられるような社会において、一度でも「異質」となってしまうことは、かなりな心理的な プレッシャーを負うことになります。つまり、「世間の目」「他人の目」が非常に気になるという状況です。フランス人で哲学者のM.フーコーは、我々現代人 の行動をコントロールしているものは、「視線(gaze)」であると考えました。我々は、この視線をどの様なときにでも感じているため、誰がいなくても普 段と同じように振る舞うのです。
この「視線」のことから考えてみると、学校に行かない状態であり続けることは、この「視線」に絶えずさらされていることになります。この「視線」は、非難 の目で見続けるのです。このことは、学校に行かなくなった子供を持つ保護者であれば、保護者へに対してもこの「視線」があると感じられると思います。日本 では、「世間の目が怖い」「世間様に申し訳がない」という意味で使われる「世間」と言う言葉も同じような意味を持っています。
また、この「視線」「世間の目」が大きな成果を上げているのは、これが「恥」と言う感覚を巧みに使っているからです。「恥」ということは、この社会にとっ て時には「死」にも匹敵するほどの力を持っています。そこまでいかなくても、自分が他の人と同じではないという感覚は、日本の社会において相当苦しいこと は想像できると思います。
この「恥」を操る「視線」を乗り越えて学校に復帰することは、子供により差は当然ありますが、そんなに容易なことではありません。
この「世間の目」「視線」に対抗するためにはどの様な方法が考えられるでしょうか。思いつくことを書いてみますと、(1)一人で戦いを挑むのは難しいの で、同じ悩みを持った人が集まりたすけあっていくこと、(2)この世にあるいろいろな人とのことを知ることにより、いわゆる「常識的な事」「正常な事」が この世の極々一部のことしか見ていないと言うこと再確認すること、(3)隠すことと「恥」は密接につながっているので、オープンにしてしまうこと、などが 考えられます。もっと他にも考えられると思います。是非、このようなことを話し合える友人または配偶者と考えて見て下さい。