自分の人生において、いくつかあきらめたことがある。
これは、自分の夢をあきらめたとかという話ではなく。自分には無理だと判断し、あまりそのことにはこだわらないようにしたという話である。
まずあげるとすれば、歌を歌うことであろうか。
自分は相当な音痴である。自分が出す音の音程、ピッチなどを調整できない。第一、カラオケにいっても、どこで歌い出すのかがよく分からない。
練習したこともある。一曲ぐらい歌えるようになるといいなと思い、少し練習した。が、結局、全然話にならない。なので、やめた。別に、特別の努力をしたわけではないので、惜しくもない。最近は、カラオケに行く機会もほとんどないので、音痴であることを痛感させられることもなくなった。
ただ、歌を聴くのは好きである。いつも作業しているときには音楽をかけている。
学校の勉強では、国語と英語がすごく苦手だった。これは、自分向けの勉強ではないと確信すら持った。ただ、避けて通ることができないので何とか取り組んだが、勉強していっても自分の知識が「積み上がっていく」、あるいは、自分の学力が徐々に向上するとは全然感じたことなどなかった。
勉強ができないことはどうでもいい。その当時はよくなかったが、仕方がない。問題は、自分があれだけ小説が好きでたくさん読んでいたのにも関わらず、名作というものの価値が全然分からなかったのである。そのため、文章を鑑賞することや文章の本当の良さを味わうことはできないとあきらめたのである。
歌を音痴というように、文学音痴なのかと思ったりした。国語の点数もとれないので、自分の読む解釈は人とは違っていると思ったりもした。
そのほかにもいろいろなことがあったが、長くなるのでひとつひとつをあげるのはやめておく。
後、まったくできないのではなく、ある程度できるものだが、それを極めるところまで達することができないとわかりあきらめたものもある。まわりからすれば、ある程度できているので、ほめてくれたりするが、自分としては「そこそこ」までしかいかないと分かるので、それ以上やる気が出ないのである。
ただ振り返れば、そこそこまでできるようにしておいたものは結構役立つこともあるので、無駄ではなかったと思ったりする。
ここで、私には無理だと信じたことが、しばらくしたらできるようになっているものもあるということも興味を持っている。
ひとつは英語である。英単語なんか全然覚えられなかった。私は記銘力がそれほど強くない。なので、自分は努力しても無駄だと思った。まあ、少しぐらいの点数はとれたが、ものになるとは信じることができなかった。
しかし、英語圏で暮らすうちにある程度は話せるようになった。これは、私の学生時代を思えば、にわかには信じがたいことである。
もうひとつ、自分はあきらめたことで、「ある程度」できるようになったことがある。それは、文章を書くことである。「名文」なんて書けない。名文なんて、かけると思ったことなどない。気の利いた表現を使おうとすると、その部分だけ変な感じなるので、その努力もしない。
しかし、伝えたいことを言葉にすることは、ある程度できるようになった。そのため、本も書けた。あれだけ、国語が嫌いだったことを思えば、奇跡的だと思う。
今、必要に迫られていることがある。それは、一度はあきらめたことである。自分には無理だろうと思って。
それは、英作文である。今でも、ショボイ文章なら書ける。今、必要なのは、もっと洗練されたものである。自分の文章を何回か読み返して、何とか精度を高めようとするが、自分ではこれ以上いけないと感じるところまで修正する。そして、そのような文章を英語の専門家に見せると、たくさん修正するところを指摘してくれる。それらの点を確認していくと、しごくもっともなことであるし、うまく書くなと思える。しかし、自分の中から出てこないものであると、痛感させられる。
このレベルに自分の英作文が達することができるとは、全然思えない。必要に迫られなければ、「あきらめた」として、気にしない状態においておきたい。が、今、必要である。これに取り組み続ければ、時間と共に何とか自分の身についてくることがあるのだろうか? そう願っている。が、そう思えていない。
結局、今の自分にしかできることしかできないと、しっかり自分に言いきかせるしかない。自分にできる範囲、自分のレベルでやるしかないじゃないか、と思うべきだろう。これは、自己暗示である。