安部公房「砂の女」(Woman in the Dunes)

今、私の最大の関心事は、英語圏の人にアピールする、あるいは、納得できる文章を書くことである。別に、詩的な文章を書こうというのではない。

 

安部公房「砂の女」は、海外で評価の高い作品である。

英語・チェコ語・フィンランド語・デンマーク語・ロシア語等の二十数ヶ国語で翻訳され、1968年(昭和43年)1月18日にはフランスで1967年度最優秀外国文学賞を受賞するなど、海外でも評価が高い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E3%81%AE%E5%A5%B3

 

一方で私の好きな司馬遼太郎は、海外からの評価は低い。どこが違うのであろうか。

 

砂の女を読んでいて感じるのは、心理的な描写の緻密さである。主人公の「ああでもない」「こうでもない」といったところが、しっかりと描かれている。このような描写は、海外の小説を読んでいても感じるところである。

また、作品から読み取れそうなメタファー(隠喩)も、私たちそれぞれの手の届くところにあるように感じさせてくれる。

砂の穴とは何を意味するのか、毎日毎日進展のない作業を続けることとは本当に不毛なものなのか、今の境遇に疑問を感じず日々の生活を送る女は何を意味するのか、日常の生活に感じることのできる恒常性がいかにもろいものなのか、など、そのような読み方が得意ではない私でも読み取ることができた。

文学者たちは、もっと「深い」ものを読み取るのだろうが、自分が読書においてそこを感じることもないし、その「深い」ものを教えてもらったとしても、あまり感銘を受けることもない。つまり、自分の手の届く範囲でしか読むことができないのだ。それを、この小説は提供できている気がする。

海外の人が海外の人なりに、その隠喩を読む余地が残されていると想像できる。つまり、日本人である私たちが読み取ったものとは異なるものを読み取り、そのところで感銘を受けている可能性である。

つまり、日本人として読み取ったものとの違いは、どうでもいいことであり、相手なりに受け取ること、想像できること、そこから考えることができるものを提供できているのではないだろうか。その部分を提供することができるものが、海外でも評価の高いものとなるのではないか、と一考したところである。

 

 

 

Great Sand Dunes NP 2