英語の文献を読み、英語で議論するが、その後、どの言語で記述するのかという問題

英語の文献を読み、英語で議論するが、その後、どの言語で記述するのかという問題

中国の心理学者と話しをして

先日、中国からサイコロジストがニュージーランドに来ていたので、ワイカト大学で応用言語学を教えているロジャー・バーナード、その妻でWINTECのコースで英語を教えているユカリ・バーナード、スリランカ人のカウンセラーであるバニ・ミルズといろいろと話しをしました。

そのなかで、大学における勉強について話をしました。中国やスリランカでは、大学教育、または専門教育において、テキスト(教科書)は英語で読むことが圧倒的に多いということでした。大学ぐらいにおいては、翻訳本を読まないようなのです。翻訳書がほとんど出回っていないのかもしれません。

そして、はっきりとは確認しませんでしたが、授業も「英語」を用いて授業するようでした。その際に、「英語だけ」ではないということに、注意してください。補足的には、その国の言語を利用しているということでした(この点については、話の中で理解したことですので、少し情報が曖昧です)。

 

英語のテキストを用いて

つまり、たとえば心理学を学ぶのに、英語のテキストを用いて、英語で学んでいくということです。

もしそれが可能であれば、翻訳書を待つ必要もなく、世界中で議論されていることが直に入ってくることになります。

実際、中国で心理療法で主なものはどのようなものがあるのかについて尋ねたら、(1)精神分析、(2)認知行動療法、(3)ポジティブ・サイコロジー、そして、徐々に入り始めているのが(4)ポストモダニズムの心理療法ということでした。

ナラティヴ・セラピーについても知っていました。このリストを見る限り、中国だからと言って、中国の伝統的なものに偏っているようには見えません。逆に、日本の心理療法のほうが、日本的なものを残しているような気がします。たとえば、森田療法、動作法、内観など。

中国では、インターネットの規制など、情報の統制があると思っていましたが、学術的な分野に関しては、英語の論文や文献をそのまま読むようになってきているのだと思いました。ここでは、翻訳なんて必要ないのかもしれません。

 

知識はどの言語で構造化されているのだろうか?

すると、その人には、英語で構造化された知識が積み上がっていくということなのでしょうか。この点について、その場で十分に確認できませんでしたが、今後興味を持っていきたいところです。

しかしながら、次の点において、知識を構造化されしている言語は、必ずしも英語ではないのかもしれない、とみなせる可能性がありそうです。

それは、英語で勉強し、英語で議論したとしても、中国語またはタミル語(スリランカ語)で、論文を書くのだそうです。

そのため、脳内において、自分の母国語の形式に置き換わっているのではないかという想像をすることができます。英語で構造化された知識なら、英語で書いたほうが手っ取り早いですから。しかし、圧倒的に母国語で書いたほうが楽だといいうことでした。

 

自分の中の知識がどの言語で構造化されているのか?

私自身も学んだものがどのような状態にあるのかと少し考えてみました。

ナラティヴ・セラピーの文献などは、英語で読んでいるものも多いのですが、日本語で蓄えられているところが大きいような気がします。

いくつかのキーワード、フレーズなどは、当然英語の言葉を知っています。うまく日本語で訳せないものは、英語の言葉しか知らないものもあります。

しかし、そのキーワードやフレーズを取り巻く言葉は、日本語が強いような気がします。ここで、取り巻く言葉とは、単語と単語をつなぎ合わせる言葉だと考えてください。

つまり、いくら英単語が含まれていようとも、文章としては、または文節としては、日本語の形式が強いのだと思うのです。

英語で書けと言われれば、書けるような気がしますが、必要となる時間が圧倒的に違います。

 

第二言語でしっかりした文章を書く難しさ

英語で文章を書くのは大変むずかしいことです。

単に、メモや簡単な電子メールを書くことは慣れてきました。しかし、しっかりとした文章をかけるようになるのは、そんなに簡単なことではありません。

まず、文法的な規則に沿って、エラーの無い文章を書けるようになることは、ある程度クリアできる可能性があると思います。

しかし、英語で意味がしっくり来る表現を使うことが難しいのです。日本語で構造化された知識は、日本語でしっくり来るものに変容している可能性があります。

そのため、いくら英文で読んでいたとしても、日本語で蓄積してしまった以上、英語に翻訳する力が必要になるのです。

ここで、英語に翻訳するとは、ただ単に日本語の意味を忠実に英語に置き換えるということだけを意味しません。英語で、しっくり来るフレーズに置き換えるということです。

時には、説明に用いるメタファーを変更する必要もあるでしょう。または、どの程度、はっきり言い切るのかの問題もあります。

 

本当に英語で論文を書かなければいけないのか?

英語で発表しなければならないという状況は当然あるでしょう。しかし、自国内の大学レベルにおいて、英語で論文を書くようにならなければならないのだろうか。

当然、英語の専門家であれば、そのレベルを狙ってもいいかもしれません。

しかし、他の分野ではどうだろうか? 数学、物理、科学技術、文学、哲学などいろいろな分野では、英語で書いている時間のロスのほうがよっぽど気になる。

日本では、英語を専門に勉強している人以外が、英語で論文を書くことは考えてみないのかもしれないが、世界の多くの国では、この方向に進みつつあるのです。

第二言語である英語の習得レベルをどこに設定するのかについて、しっかりした議論を読んでみたい。誰かよい論者はいないだろうか。

 

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