『吃音の当事者研究: どもる人たちが「べてるの家」と出会った』
本書を読みました。その中でいくつか思ったことを書いてみたいと思います。
「治療」「訓練」という言葉で何を意味するのか
この本は、今「どもり」「吃音」という症状に向き合っている当事者、保護者、そしてそれに関わる専門家に対して、たいへん根底となる事柄について考えてみるように促していると思う。
それは、「治療」あるいは「訓練」とは、いったい何なのだろうかということなのではないだろうか。
「治療」とか「訓練」とは、問題視されている現象に対して取り組むものである。そのため、その問題視されている現象の消滅によって、その「治療」や「訓練」の有効性が問われることになる。
どもりの当事者であり、著者の伊藤さんは、既存の「治療」や「訓練」ではどもりという現象を治すことはできないのではないかと訴える。
どもりの状態像を変化させることができないとまでは言っていない。しかし、現象の消滅、たぶんほとんどの当事者と保護者が望む目標を達成することはできないのだという。
そうであれば、どのような状態像であれ、どもりと共に生きていくことを主題とすべきだろうというのである。どうやってどもりと共に生きていくのか、それこそが、その人に取って一番の問題なのではないかと。
「現象の消滅」を望めないときの「治療」と「訓練」
その治療や訓練が「現象の消滅」を望めないという状況は、多く存在する。たとえば、不治の病に冒されている人に対する治療、聴覚や視覚などの感覚機能が失われている人に対する治療、知的な問題を抱えている人に対する治療や訓練など、たぶん数え上げれば切りがない。
「治療」や「訓練」を提供している人も、上のような状況にある人びとに対して、自分が提供しているものだけでは充分なものとなり得るとは思えないだろう。
この際には、終末期をどのように迎えるのか、今後どのように生きていくのか、どのような支援を提供するのかなど、多面的な視点が必要となる。
著者の伊藤さんの本文を読んで感じるのは、「治療」や「訓練」を提供している専門家たちが自分たちの提供する策にたいする姿勢について、大きな疑問を持ってしまうのではないかということである。つまり、ある種の謙虚さがない、と感じるのではないだろうか。ここで、謙虚さとは、自分ができることの限界を把握しようとする姿勢であり、自分ができないこととを越えたところも考慮しようとする姿勢であるだろう。
もっと単純にいえば、自分の提供する「治療」や「訓練」が功を奏さない場合でも、どのようにどもりという症状に悩まされている人と取り組んでいけるのかということであろう。
自分の専門職の領域を狭めない
専門家として、すでに社会で成立してしまってる業務が存在する。責任感と言い換えることができるかも知れない。スピーチセラピストであれば、その種の訓練を提供することがその専門家が求められていることである。つまり、そのことをしないということは、専門家としてしっかり機能していないことになる。専門家は、そのように機能することで専門家として働いていることになるからである。
どのような専門家もまったく独自の方法で自分のサービスを提供しようとする人はいない。必ず、既存の理論や技法を学び、受け継がれてきた技法を提供することが求められる。それは、その専門職集団がしっかり機能するためには、重要なことになる。当然それは、安全面でも重要なことである。勝手な思いつきで、治療をされても困るのだ。
すると、それぞれの専門家はそれぞれの枠を提供していることになる。枠と枠の間になにがあるのか、どのようなニーズがあるのかについては、あまり意識されないだろう。
本書を読んでいて、専門家の枠の外にあるものが、当事者として伊藤さんはたいへん重要なことであると気づいているのであると思った。そして、どもりの当事者がである専門家たちが「その枠しか」提供しないことに対する弊害をたいへん気に病んでいるのである。
「治療」や「訓練」を受けて治らなければ、専門家としてどうするのだろうか? それを、当事者の努力が足りないということにしていないだろうか? 当事者たちは、「それでも」自分の人生を生きていかなければならない、と伊藤さんは言いたいのだろうと思う。
当事者が、専門家が提供した枠から外れたときに、いったい誰がどもりで苦しんでいる人たちに関わってくれるというのだろうか? それは、専門家として、もっと広い視点で接するべきではないかという倫理的な問題をもっと真剣に向き合うべきではないだろうか? そのような疑問がふつふつと湧いてくるのではないのだろうかと思う。
当事者たちに返すもの
「専門家」としての「枠」を越えることができないのであれば、その越えたところにある支援を促進し、支えていく姿勢が重要になるのではないだろうか。
その越えたところにあるものは、「専門家」というものではなく、当事者たちが自ら行っていく支援なのではないだろうか。それは、代表的に自助グループといわれるものであろう。
そして、この本で扱う「当事者研究」というものによって、促進され、専門家もそこから学び取る必要がある。当事者研究をどれほど重要なことであるかと見なすのかは、専門家の姿勢にかかっている。当事者の勝手なことであると見なすことさえできる。しかし、研究者として、研究者からは出てこない英知や経験について、興味関心を深く抱くこともできるであろう。
そこから出てきたものから一般性を導くことはできないかも知れない。しかし、研究成果として「どもりとは・・・」と要約されてしまったものに対して、幅広い理解を確保することに、当事者研究はたいへん有効なのである。
当事者が言わんとしていることに耳を傾けよう
この本は、当事者の訴えを酌み取ることができる。そこに、耳を傾け、そこの議論が自分たちの専門家としての役割にどのような意味を持つのか議論する必要があるのではないかと感じました。
読むに値する本です。
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