PTSD
東日本大震災の後、宮城県気仙沼市に滞在して心理臨床活動をおこなっていたので、PTSDについてはいろいろ調べたし、いろいろと考えました。このことが自分の臨床活動に大きく関係を持ったのははじめてのことでしたので、それなりに真剣に考えていきました。
ところが、いちばん悩ませたのは、PTSDに対応する方法ではありません。それは、東日本大震災という大変な状況が生じて、それを経験した人が多かったにもかかわらず、PTSDという現象を見ることができなかったことです。
このことで、二つのことを可能性を考えました。ひとつは、私の目が節穴であるという可能性です。これは、この領域に対した経験があるわけではありませんでしたので、いちばん初めに考えないといけないといけないところでした。
私が節穴かどうかについては、比較的簡単に確認することができます。それは、他の場所で、他の臨床家がPTSDを認識できているのであれば、PTSDの診断、または疑いを受けている生徒数を見れば一目瞭然です。ところが、他でも見つからなかったのです。
そのため、もうひとつの可能性について考える必要がありました。それは、PTSDについての情報が間違っているということです。当然、こちらを考えるのはなかなか勇気がいるところです。これは、PTSD全般についての議論が間違っているということではなく、少なくとも自然災害についてのPTSDについての議論が、現実を反映していないということを考える必要がありました。
PTG
しばらく年月が経つと、専門家も、被災者がPTSDを発症することを吹聴し続けることができないぐらい、PTSDの診断が必要な人が少ないということに、直面するようになります。
すると、次の言葉で被災者を考えるようになりました。それは、PTG(トラウマ後の成長)です。つまり、トラウマ的な出来事を経験して、障害に発展のではなく、人は成長するのだという視点です。
一見、大変ポジティヴな見解なので、少なくともPTSDの話をするよりもいいのかと見受けられますが、私はあまりしっくりしませんでした。
なぜならば、トラウマを体験した人に、「だからあなたは成長できたのだね?」と軽々しくいうことができないと思ったからです。当然、本人がそのように思ってくれるのであれば、異論はありません。しかし、PTGでも、私に相手の体験をめぐる会話に従事させてくれない気がしたのです。
映画「愛を読むひと」
少し前に、映画「愛を読むひと」を見ました。映画が良かったので、原書も読んでみました。ニュージーランドにいると、原書の方が入手しやすいので。
その中で、映画「愛を読むひと」でのやりとりが忘れられません。これは、原書には無かったような気がするので、映画ならではの会話だと思います。
アウシュビッツで生き残った女性と、主人公が話す場面があります。これは、ストーリーの最後の最後の部分です。その女性が、生き残った体験について、人々からインタビューを受けてきた経験について意見を述べたものです。
People ask all the time what I learned in the camps. (しょっちゅう人は、私に、キャンプで何を学んだのかを聞くのよ)
But the camps weren’t therapy.(キャンプは、セラピーじゃないのよ)
What do you think these places were, universities? (そこを何だと思っているの? 大学?)
We didn’t go there to learn. (私たちは何かを学びにそこにいったんじゃないわ)
One becomes very clear about these things.(その事についてはっきりしているの)
What are you asking for? (何を求めているの?)
Forgiveness for her? (彼女に対する許し?)
Or do you just want to feel better yourself? (それとも自分がいい気分になりたいだけ?)
My advice? Go to the theater if you want catharsis. Please. (私のアドバイスを聞きたい? カタルシスが欲しければ、劇場に行ってよ。お願いだから)
Go to literature.(文学でも読んで)
Don’t go to the camps.(でも、キャンプに行かないで頂戴)
Nothing comes out of the camps.(キャンプから何も出てこないわ)
Nothing.(何にもよ)
Dichotomy (ダイコトミー)
ものごとを考察するときに、ある特定のものの見方が一方に偏っているとき、対極にあるものの見方を持ってくることで、その考察の偏りを是正しようとするときがあります。今回のように、PTSDという障害の一端から、PTGという人の成長の一端に移行するのはよい例です。
何かを是正しようとする時に、対極のものを持ってくることの価値は認めます。ところが、この考え方も一方に偏った見方でしかないのです。
東北大震災後どれだけ人が成長できたかの研究を想像してみて欲しいのですが、最愛の人を亡くした人、職を失った人、家を失った人に、どんなアンケート用紙を用意できるのだろうか。自分の妻や娘を亡くして、人として成長できたことをのっけから聞かれたとき、人はどのような気持ちのなるのだろうか。私は想像できそうな気がするのです。