内田樹の「レヴィナスと愛の現象学」を読み終わった。個人的に、「愛」が冒頭に掲げられている書物を手に取ることはあまりないのだが、たまたまブックオフにあったのために購入した。内田樹の名前をみて買った。
本来読むべき本がなかなか読み進められなかったので、読み始めたところ、これは私が読んでおかなければならない本であると、思った。これほど、論旨に惹きつけられながらも、速く読むことを拒んだ書物は珍しい。読みながら、その節が意味することを立ち止まって、あるいは、本を閉じて、その場を離れて考える必要があった。そのぐらい、本書の内容が私に意味することがあったのだと思う。
でも最初は、この本が私をどこに連れて行ってくれるのかまったく理解できなかった。ただ、内田樹が一つひとつ前提(足場)を築きながら、どこかに連れて行ってくれるという感覚は持つことができた。
その足場を作る姿勢がなぜそれほどまで慎重で、重要であるのかは、その後展開される、レヴィナスの誤解されている男性と女性についての記述のところまで来ると理解できる。
私は、フェミニズムが展開する論旨があまりにも単純すぎて、好きになることはできないでいた。その単純さは、男の否定という形式から主にもたらされていると感じていた。残念なことに、否定は、次に進むべきあり方を示唆してくれるわけではない。否定は現状に対する問題提議をもたらすが、現状の改善策を提供するわけではない。
本書の痛快さはは、男女にまつわる伝統的な古い価値観についてのものに読めてしまうレヴィナスの文章を、男女というような二元論的なレベルで論じるのでいるのではなく、人がいかに人として生きていくべきかについての倫理的な意味を与えることができたことにあるように思う。
「他者」に先んじて、「他者」を押しのけて、「私はここにいます」と宣言し、罰を受けるために一歩前に出ることである(p.321)
この「不平等」が人の社会を作っていくのだとする。なんという精神なのだろう。
本書を読みながら、随分とたくさんの赤線をひいた。その赤線をひいた部分から自分が学んだこと、考えたことを書く事もできるのだろうが、ブログの記事が終わりそうにないのでやめておく。
でも、今この時点で、私の生々しく生きていることがいくつかある。
まず、私たちは書物からではなく、人が語る言葉を通じて学ばなければならないということ。それは、人の音読を聞くということではなく、同じことと別の仕方で語る人が必要であるということである。
私は、これを実感できる。ある概念について、教科書的定義を知ることは、その概念を理解することにはつながらない。でも、その概念について、さまざまな人が語るのを聞くとき、その概念が、自分の使える用語として定着していく。そして、その概念から思考できるようになっていくである。
そのため、私たちは、そのことについて、いろいろと語ることができる人を招き入れていかないといけないということなのである。それは、教科書的定義を繰り返す人ではなく、その人自身で思考した人なのだろう。
すると、本書で示されているように、私たちは、すでに閉じられてしまった知識、教科書的知識を新しく開かれたものとする必要がある、ということが理解できる。
いろいろなところで、回答が与えられるように期待されているが、それが重要ではなく、そのことについて、開かれた会話を提供する場をいかに作るかが大切となる、と私は理解する。
レヴィナスは、ナラティヴ・セラピーの領域で引用されることはあまりないように思うが、大変に多くの貢献をしてくれそうに感じる。
そして、何より、内田樹が感じ取ったこと、つまり、文庫本のあとがきに書いているように、良き人として振る舞うことが十分に想像できるような人柄を持っているということが、私がレヴィナスを好きになれるであろうという予感を十分にもたらしてくれる。
次は、「他者と死者 カランによるレヴィナス」を読みたいと思います。