シリーズ・哲学のエッセンス
『ドゥルーズ ー 解けない問いを生きる』檜垣立哉著
NHK出版
そもそも、倫理を語るときにもちだされる絶対的な他者とは何であろうか。それは、実際には、<私>の中心性を向こう側に反転させたものでしかないのではないか。極端な自己中心性と徹底した他者中心性、揺るぎない利己主義と無償の利他主義、これらはほとんど同じ構造を持つのではないか。(p. 97-98)
利己的な言説と利他的な言説、自己への固執を述べる倫理と死の方向から照らしだされる倫理とは、奇妙にも似通い、ほとんどかさなりあってしまう。単純にいえば、それらは純粋性という観点から酷似するのである。それどころか、他者や死をめぐる言説においては、不在の中心が設定されるがゆえに、実際にはさらに純化された倫理の言葉が語られる危険がある。つまりいっそう先鋭的であり、そうであることに自らが酔うような正義や宗教の言葉が紡ぎだされる可能性がある。純化された何か、というのは倫理にとってもっとも危険ではないか。(p. 99)
正しい問いの解き方はない。本当の<私>も、モデルとなる理想の葉もない。そんなものはどこにもない。<私>であることそのものが、決まり切った分類からいつも逃れていくからだ。明確な分類を作成し、個体をそこに押し込めてしまうならば(=つまり個体を分化の水準で描ききるならば)、個体はそのあり方において、そうした分類をいつも溢れかえっていく反乱そのものである。ヒエラルキーを描きだし、そこに定位しようとするならば、個体はいつもそれを崩していき、自らの姿をも組み換えていく。個体とは、予見不可能な生成として、ハイブリッド(それ自身が異他的)であることの肯定そのものであるからだ。(p. 106-107)
私にとっては非常にわかりやすく、「次」を読むための良い布石になったと感じます。檜垣立哉さんは、これからも注意してみていきたいと思いました。