翻訳について(意訳のこと、ニュアンスのこと)

DCNZの日本語セミナー

 ダイバーシティ・カウンセリング・ニュージーランド(DCNZ)で先日開催した日本語セミナーは「翻訳者への道・翻訳の実際」でした。

 この中で、いろいろと興味深いテーマがありましたので少しだけ書いてみたいと思います。

 

意訳ということ

 講師の橋本周太郎さんによれば、意訳をする人を見ていると、自分が英語をうまく理解できないところを自分で意味を勝手に作り上げてしまい、それに基づいて訳文を作り出している場合が結構あるということでした。これは、意味が分かってなおかつ、日本語に適した表現をみつけるというのではありません。

 そして、周太郎さんによれば、意訳は、翻訳における飾りの部分(少し気の利いた表現を使っているという程度)のことであり、翻訳の本質の部分ではないということでした。これは、文芸的な翻訳についてのものではありません。その文章の意味を別の言語に過不足なく伝えるということが翻訳の本質だということなのでしょう。

 私も、時々、人が訳し出した訳文を修正することがあります。また、自分の翻訳を人に見てもらう時があります。そのような時に、意訳したくなる欲求が高くなっている箇所が分かる場合があります。そこは、やはり英語の表現的に難しいということもありますが、英語圏で生活していないとピンとこないところという場合もあります。後者の場合は、かなり読み込まないと分からないのですが、後者の場合、結構意味が分かったつもりになっている場合があります。

 この意訳されている文章は、やっかいです。それは、一見日本語で意味が通じているからです。そこの場所には、そんなような言葉がくるであろうという予測(想像)のもとに、言葉をあてはめているので、何となく日本語で読むと訳文としてあっているような気になるのです。

 当然のことながら、そのような訳文は、原文にある緻密な論理を伝えることはできないものです。私が翻訳を手がけることの多い学術的なものであれば、原文にある何か重要なものが無くなっていくと思えます。

 まずは、意訳をしないで、しっかりと訳文を作り上げる力が翻訳者に求められているのであると思います。

 直訳という言葉に、あまりよい響きがないのも問題なのでしょう。まずは、しっかりと直訳の訳文を作り、その上で、日本語として体裁を整えるということに専念しなければなりません。

 「分かっているんですけど、なんかうまく言葉にできないんですよね」ということを言う人が結構いますが、周太郎さんによれば、「それは分かっていない」ということだということでした。

 意訳したくなったら、その欲求を抑えて、英文の文法構造を調べ、しっかりと直訳して意味を把握する必要があるということのようです。そして、その意味が理解できるまで、何度でも辞書をひかないといけないようです。

 

ニュアンスを伝えること

 フロアからの質問で、日本人同士で話をして理解したことを英語で伝えようとするとうまく伝えられないのではないか、ニュアンスがうまく伝わらないのではないかという質問がありました。

 この質問について、後でいろいろと考えたのですが、日本人同士で話をした時に得られたもの(ニュアンスと呼びましょう)は、いろいろな側面を含んでいると思いました。

 まず、日本語でやりとりをした時に共有できたものは、英語で表現できないということではなく、実は日本語で書くことも難しいのではないかということです。話し言葉と書き言葉の違いもあります。また、話の中で行きつ戻りつしたことを、文章でまとめる難しさもあります。

 つまりは、この共有したものとは、一種の幻想ではないかという疑念を持つのです。つまり、双方分かったという気持ちにいたっただけということです。しかし、それが何であるのかは、しっかりと構造化されていないので、文章化することは、日本語であっても無理なのです。もしそれをしたいのであれば、その文章についてしっかりと二人で話し合って検討していく必要があるでしょう。この幻想をニュアンスと呼ぶのであれば、それは、翻訳によって失われるというのではなく、二人が作り上げたものを人に伝える過程で、あるいは文章にする過程で、その幻想を伝えることができないと言うことなのではないでしょうか。

 次に興味深い側面は、そのニュアンスを伝えることの問題は、言語の問題ではなく文脈の問題ではないかということです。お米とご飯という区別は英語にはありませんので、英語ではRiceにいろいろな形容詞をつけて表現する必要があります。たとえば、Steamed, cooked, boiledなどのようにです。これで、日本人が伝えようとしている「ごはん」という文化的に重要な意味づけの言葉を英語で表現できないと感じてしまう時があります。

 これは、英語のその言葉がないということが問題なのではなく、読み手がその文脈、つまりはその文化を知らないということに関係しているのではないでしょう。たとえば、どんな英語の表現を使おうとも、日本人が「ごはん」を翻訳された言葉に遭遇する時、それは「ごはん」という意味が伝わるでしょう。日本に長く住んでいる外人も理解してくれると思えます。

 理解できないのは、その「ごはん」を知らない人たちです。その知らない人たちに「ごはん」を伝えることのできる単語はありえないのです。そこで、「Gohan」と表現して、読み手に喚起を促すことの試みもできるかもしれません。

 翻訳する者として、その文脈まで伝えられる言葉があることを想定できないのではないでしょうか。そのため、読み手がその文脈を何とか探り当ててくれるのを期待しながら、表現として過不足が生じない翻訳を提供するしかないと思います。これは、翻訳の問題ではない、と考えています。

 大体、同じ言葉で話をしていながら、かなり誤解も生じますし、相手の受け取り方もずいぶん違います。そのため、同じ言語であれば、ニュアンスが伝わるものだということも、あまりありえない気がします。英語で人と話をしていて、伝わる人には伝わります。それは、二人の間のコミュニケーションの問題なのでしょう。

 

 Queen of the North Island