学校に行かないこと

スクールカウンセラーをしていると、学校に来ることができなくなってしまった状態に陥ってしまった生徒たちに対応することが、一番大きな業務となっています。

文部科学省の平成21 年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」では、小中学校で病気など理由以外で一ヶ月以上休んだ生徒の数は、約12万3千人弱です。これは、前年度よりも、約4,500人減少(約3.4%減)しているという報告が出ています(出典:http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/22/08/1296216.htm)。

学校恐怖症、登校拒否というような言葉を経て、今では原因についてはそれほど言及していない「不登校」という言葉が使われています。

いろいろな対策がなされているようですが、劇的な成果を上げているような対策はあまりないという印象を持っています。それは、原則的にその対応が「対症療法」だからです。

不登校問題を長年にわたって対応してきている組織や人たちの経験が、対策に生かされてないのかもしれません。そのような人たち、私も含めてですが、「学校に行かないということが、その子の発達にどんな影響があるのかわからない」ということです。つまり、学校に行かない子どもたちの多くが、それなりに成長していく姿を見ることができるからと言うことです。

それよりも、「不登校は悪いこと」「どんなことをしても学校には行かなければ行けない」という考えに支配されている人たちによる関わりの方が、よっぽどその子どもたちに悪影響を与えているだろうということです。

同じ言葉でも社会的な要因によって、言葉の持つ意味が異なってきます。たとえば、「不登校」のことですが、そもそも、ニュージーランドには「不登校児」はいません。昔ながらに「ずる休み」や「無断欠席」するような生徒はいます。もしかしたら少なくないのかもしれません。しかし、「不登校児」という言葉で含蓄されるように子供たちやその家族が見なされることはありません。英語で一般にはTruancyといいますが、口語での表現は実に多彩です。このように、学校にまともに来ないという現象はどの社会にもあります。日本でも、鹿児島では「山学校」などのようなものが存在していました。しかし、現代社会の日本では、「不登校」の意味はもっと重く、絶望感さえ伝わってきます。

日本では学校に行かなければならないという事がものすごく強調されています。しかし、国連の機関であるユニセフの報告を見ても、この地球上で学校に行くことができる子供はまだまだ不十分です。子どもは学校に行かないとまともに成長しないのでしょうか? 歴史的に見れば、人類の子どもが学校という所を必要としないでも大人になることができると言うことは理解できると思います。

さて、実はこの不登校という現象を考えるときに、不登校そのものの現象の重さを作り上げているのは、学校に行かなければいけないという考え方の重さから来るものであるという考え方があります。他の選択肢がないのです。もし、中学校を卒業して、社会に出て行くと言うことがきちんと受け入れられているとすれば、高校を離れると言うことにそれほどの大きな意味を見出すことはないという考え方もあるのです。

学校に行って、既成の知識を詰め込んでも、それを応用するということに結びつくわけではありません。子ども時代には、「子どもの本分」である遊びをしっかりさせてほしいところです。

 

 

 

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