ディスコースとは

 一般的に「ディスコース」という言葉は「対話」「話法」「講演」「論文」という意味で使われる。ナラティヴの文脈に近い用法として使われる時には「言説」と訳されたりもする。いずれにしても,この概念を言葉からだけで理解することは難しいと思う。上の不登校の例において説明してみよう。社会において「不登校」という言葉に対して意味づけがなされている。この意味づけは,歴史的にも変化するし,社会的,文化的にも異なっている。つまり,これは何らかの真理を伝えるような言葉ではないのである。しかし日本社会という文脈において,この「不登校」という言葉の意味するところは,この状態に陥っている人やその家族に対しては不全感を,そしてそのような人を支援する人に対しては無力感を与えるものではなかろうか。ところが,学校に行かないという現象はほぼどの社会にも存在するし,日本においても学校に行かない状態がそれほど重大な意味を与えられなかった時期もあったのである。大体,近代社会になって子どもは学校に行くようになったが,ホモサピエンスが登場して以来,学校に行かないために「おかしくなる」ことが「真理」であったら人類は生き残ってくることはなかったのである。開発途上国には学校に行っていない多くの子どもたちがいるが,「不登校児」ではないし,「大人になれない」こともなければ,「集団に適応する力が育たない」ということもないのである。

 ナラティヴにおいて,このような場合にはまず「不登校」というディスコースを見ていく。これは,このディスコースが私たちに対してどのような理解の枠組み,意味づけをもたらし,そのことによって私たちの思考や行動にどのような影響をもたらしているのかを分析するものである。その際に,どの場所,どの地域,どの時代,どの性別,どの人種に対して特に重要な意味をもたらすものであるのかという視点も組み入れていく。

 また,専門家に対するディスコースも存在する。それぞれの専門家は,専門知識を身につけ,唯一の真実を探求し,もっとも適した描写をクライアントまたは患者に対して提供するように求められていると考えられてきた。しかし専門知識も描写のひとつに過ぎないし,その描写がクライアントをある範囲に限定してしまう。また,その描写をする専門家も個々の経験と社会に存在する多くの支配的なディスコースの影響下にある。資格社会において,資格を得るためにさまざまなハードルが用意されているが,その資格を得るということはその名称でひと括りにされるということでもある。たとえば,「臨床心理士の○○です」という場合,人は名前の部分で判断するのではなく,臨床心理士という肩書きで判断する。あたかも,その肩書きを持っている人間はすべて同じ能力を有し,同じ考え方を持っているかのように見なされていくのである。そして同時に,その人自身も「臨床心理士」として考え,振る舞うようになる。「臨床心理士」というディスコースを前にして,個人的な感情,考え,思いは消されていく傾向にある。

 ディスコースという概念を用いて,たとえば「ここで『教師』のディスコースがあなたに与えている影響はどのようなものがあるのか一緒に見ていきましょう」というような問いかけを通じて,人に対する影響を見ていくことができるのである。ディスコースという言葉に馴染みのない日本人には「『世間』は『教師』に対して,どのように考え,どのように振る舞うべきであると考えているのでしょうか」と問いかけると有効であると感じている。日本文化におけるさまざまなディスコースの影響力を,それぞれに対する「世間」の考え方や期待と照らし合わせてみることも有効な手段となる。ディスコースは限りなくあるが,例を挙げれば「母親」「父親」「片親」「男」「女」「障害者」「ホモセクシュアル」などのディスコースがある。これらのディスコースを理解していくことは,あえて言い換えれば「世間の価値判断」を見つめていくということである。このようにディスコースを理解することによって,人を苦しめている問題に貢献しているディスコースの重大性や絶対性を取り崩し,その人が自身の人生の主役として,自分で決定権を持ち,行動していくことのできる隙間を作っていくのである。たとえば「このように『教師』のディスコースをみてきましたが,このようなディスコースの言いなりになってはいないと思える部分は,どのようなことがあるのでしょうか」などと問いかけることによって,その人のディスコースに対抗できる資質,能力,考え方に焦点が合わされるのである。そして,「私は『教師』です」とその肩書きで括られることではみることのできない領域が浮かび上がってくる。

 以上のようなディスコースが人間の考え方や行動に影響を与えているという理解の仕方を「社会構成主義」という。これは,意味の生産において言葉の役割を強調する社会科学の動きであり,その中心的な考えは「人々は自分たちの考え,感情,行動を決定する社会的状況をディスコースから作り出していく」ということである。「ディスコース」とは「社会的なやりとりがある場所において,固定的ではない状態にあるが,理解するための枠組みまたは意味の集まり(Drewery & Monk, 1994)」であり,すべての種類の社会的状況がどのように継続されるかを伝える「常識」と見なされている「思い込み」が含まれる。つまり,意味は決まっているものではなく,社会的な文脈で作られるものであるという考え方である。

 

出典: ナラティヴ・アプローチ—希望を掘りあてる考古学

 

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