「愛する」という動詞の歴史的差異

言葉の持つ意味は、時代によって変化しますが、その興味深い例を読みましたので、それを引用しておきます。

人びとの、自分の経験についての考え方や説明の仕方における文化的差異ばかりでなく、議論に重みを加える歴史的差異もある。われわれの言語は絶えず変化しており、語の意味が時とともに変化するのをわれわれは受け入れる。しかし、ごく最近は特によく起こることだが、いくつかの意味が変化してきた様子は興味深い。「愛する」という動詞は、その好例である。複雑な文法を学ぶ子どもたちには、動詞は「する」語と説明される――それらは、「働く」とか「泣く」のような、人びとがしていることを伝える語である。けれども、現在のわれわれの「愛する」という動詞の使い方は、異なる含意をもつ。われわれが誰かを愛すると言うとき、われわれがしばしば指示しているのは、われわれの行為ではなく、その人への感情である。とはいえ、これは、もともとそうであったわけではない。私が子どもの頃、おばあさんはときどき、「こっちへ来て愛を頂戴」とか「ちょっと愛させてよ」と言ったものだ。ここでは、誰かを「愛する」ことは、その人を身体的に抱きじめることを意味しており、それにおそらくその人の体を心地よくすることを意味している。おそらく地方のどこかでは、この意味は今でも時に使われているが、しかし誰かを愛すると語る大半の場合は、私的出来事、自分の感情、つまり内面に存在すると考えられるもの、しかも人びとへの接し方に影響するものについて、われわれは語っている。したがって「愛」は、われわれの行動を記述する語というより、むしろ行動を動機づけると見られる何かになってきた。皮肉なことに、愛がこの内的領域へ追いやられ、品行とはまったく無関連になりうるために、ひどくおぞましい行動の言い訳に使われることさえある「怒るときには彼女をぶつさ――でも本当に彼女を愛しているんだ……」)。

社会的構築主義への招待―言説分析とは何か p.36-37

 

愛とはその行為を示す言葉であることであるということは、その理解において、より単純さが生じててくるような気がします。