3.11の東日本大震災との関係性において、いろいろなレベルが存在する、ように感じてしまうのです。
ここで、レベルという言葉、つまり階層を示唆する言葉を使っているのは、意図があります。
私たちは、自分の体験のレベルを、ほかの人の体験と比較し、その程度を測っているからです。
たとえば、被災地とは縁もゆかりもない場合、被災地に知人がいる場合、被災した県には住んでいるが、被災地ではない場合、被災地であるが、直接的な被害はない場合、被災地で、直接的な被害はあったが、物質的な被害を限定的に受けている場合、直接的な被害が大きいが、物質的な被害に限られている場合、物質的な被害はないが、人的な被害があった場合、物質的な被害も人的な被害もあった場合。
このレベルの上下関係は、あまり重要ではなく、自分の立ち位置を周りと比較し、自分より被災の大きい人と比べるのです。その比較は、その人の主観的な判断によるものであると感じます。
そのような状況において、3.11の被災状況について何かを書くときに、自分の意見なり、考え方が、自分よりレベルで経験した人のことまで言うことはできない、と感じてしまうのです。ましてや、直接的な被災を受けていない人が何かを言わなければならないとき、何をどのように言うことができるのか、大変難しい問題となります。
この本は、そのような立場の教育者たちが、3.11について述べたものの記録です。
教育という視点に立つと、もうひとつ難しい立ち位置が生じます。それは、言うまでもなく、教育者としての立場です。つまり、述べることが説教くさくなるのです。言い方を変えれば、発言者自身に対する内省を置き去りにして、発言してしまう可能性が残されています。
いくつかの文章は、このような立ち位置の人たちが何をどのように述べるのかについて、 非常に参考になるものであると感じました。
発言者が直接的な経験者ではない場合、その内容に哲学的または思想的な観念のレベルに持って行く必要があるのだと、感じました。
また、序文は、内田樹によるもので、「リスクとデインジャー」について述べたものです。この序文は、内田樹のブログでも読むことができます。こちらも興味深いです。
それでもいまは、真っ白な帆を上げよう -3.11東日本大震災後に発信された、学長からの感動メッセージ- | |
旺文社
旺文社 2011-06-28 |