内言としての「かんばる」ならいいのかも

「がんばる」「がんばろう」「がんばれ」という言葉が溢れています。至る所で、この言葉を聞くのです。そのために、どんな意味なんだろうかと考えています。

 

基本的に、カウンセラーとして、クライアントに、「がんばって」と声をかけることはありません。ここで、「基本的」と言いましたが、どのような例外があるのだろうのでしょうか?

 

このことを検討するにあたって、「がんばる」をふたつの言葉の使い方で見てみることにします。ひとつ目は、自分が自分に向けられたものとしての「がんばる」。これは。多くの場合、言葉に出さないことが多いはずです。心の中だけで話す言葉を「内言」と呼びます。この内言も、実際には、音として口に出すこともあります。それは、「仕方がない、がんばろう」と独り言をいうような場合です。

ふたつ目は、「がんばる」という言葉が自分自身以外の人に向かって投げ掛けられているものとしての「がんばる」。これは、「がんばりなさい」と直接相手に向かって言葉が発せられる場合だけでなく、合い言葉のように「みんなでがんばろう」という形式を取る場合もあるはずです。

 

このふたつ目の場合における、「がんばる」について考えていきます。

まず、何かに努力することを人に要求する「がんばる」は、言われてみるとすぐに分かるのですが、基本的に気持ちのいいものではありません。言っている人に対する信頼、敬意がある場合には、まあ、何とか「がんばる」という言葉を自分の内に取り入れようとするのですが、そうでない場合には、反感しか湧きません。それは、「人にがんばれというあなたは、どうなのよ!」という気持ちが出るからでしょう。

ここで、がんばっていると私たちが認めた人以外から、「がんばれ」と言われても、何の効果もないということです。そして、私が日頃感じていることは、私たちががんばっていると認めているような人は、安易に、人にがんばれなどとは言わないのです。

 

次に、合い言葉としての「みんなでがんばろう」はどうなのでしょうか? グループで何かに取り組むとき、この言葉が多く使われるのではないでしょうか? この時も、実は、発言者が自分に向けて言っている場合ではない場合には、嫌みに聞こえます。

たとえば、東日本大震災で、その渦中にいて、自分も一緒になって活動している人が「みんなでがんばろう」と言うときと、誰だか分からない人(メディアも含む)が、「みんなでがんばろう」と言うときでは、雲泥の差があるのではないかということです。

それは、誰だか分からない人、当事者ではない人が、どんな意味で「みんなで」という言葉を使っているのか分からないからです。

 

このように、使われる言葉は、誰に向かって発せられているのか、そして、誰が発しているのかによって意味が違います。この違いを理解すると、自分自身が自分に向かって、「よし、がんばろう」という言葉は、必要であるし、大切な言葉であると、素直に認められる気がしてきました。

そして、その内言として発せられた「がんばる」を認める人として、カウンセラーが「がんばってきたのですね」と確認を取ってあげることは、大切だとも思えるのです。これは、今後「がんばりなさい」という将来に向けた言葉ではなく、いままで「がんばってきた」という過去の努力を認める言葉だからでしょう。

 

今まで、どうやって「がんばる」を認められるのか考えてきましたが、何とか言葉にできました。

 

 

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