文化をまたがっても、心地よく思えるもの

ニュージーランドにいて、いろいろな文化的背景を持つ人たちと接する機会が増えて来ました。ニュージーランドは移民の国ですので、当然周りには、他の国から移民してきた人たちがたくさんいます。しかし、見かけるのと、実際に話したり、接したりするのは、その関係性の程度において大きな違いがあります。

 

今、Diversity Counseling New Zealandという組織を立ち上げようとしています。この組織は、クライアントの母国語でカウンセリングを提供するものです。世界に言語の数はたくさんありますので、すべてをそろえることは難しいと考えています。もし、希望する言語が提供できない場合には、そのクライアントの文化的、民族的、言語的背景を理解しているカウンセラーが対応することになります。

たとえば、日本人カウンセラーである私は、日本語と英語しかできませんので、他のアジアの国々から来た人たちと話すときには、英語を利用するしかありません。しかし、私の日本人という側面は、他のアジア人に対して、英語で話すときも、それほど威圧感を与えない可能性があるのです。(ただし、日本の歴史的な要因が壁を作ってしまう可能性については、常に気をつけなければなりませんが)

現時点で、日本語、中国語、タミル語、スペイン語、オランダ語を話すカウンセラーが協力してくれることになっています。韓国語を話すカウンセラーは、今はまだ大学院で勉強していますので、私たちの活動に参加するのはもう少し後になります。

 

この事業を立ち上げる際に、いろいろな人と接する機会が多くなっています。それも、いろいろと異なる文化的背景を持っている人たちです。

接していく内に、人との対応で心地よく思える要因というものは、結構共通したものがあるのではないかと思えるようになってきました。

民族が持つ特徴をその文化的背景に原因があるものとして考えがちです。たとえば、時間にルーズであることとか、約束をどのように守るのかと言うことについてです。しかし、さまざまな人種と接していくと、どの文化にもいいかげんな人もいるし、立派な人もいることに気づきます。本当に人それぞれなのです。

ところが受け手としては、どのような人でも、「心地よさ」として受ける条件は似ているのではないかと思うのです。

 

それは、実は特別なことではなく、約束を守ること、言ったことはその通りに実行すること、メールはしっかり返信することなどなのです。ときに、皮膚の色が違ったり、英語で十分にコミュニケーションできないと、相手に対する懐疑心が生じてしまうことがあります。しかし、この人として基本と思える事柄をしっかりしていくことによって、そのような壁は越えられてくるのではないだろうかと希望を抱いているところです。

 

このような「心地よさ」を受ける条件ですが、相手にそのようなものを提供するのがどうもうまくない人(たとえば、約束を守らないなど)も、相手にはそのようなものを期待しているし、そこに心地よさを感じると思えるのです。

 

今、いろいろな国から来ているカウンセラーと一緒に活動を始めましたが、みな、この条件を満たしている人たちですので、大変やりやすさを感じているところです。

 

Rainbow Trout