言語習得の不可能性について

(追記)タイトルを「第二言語習得の不可能性について」とすべきでした。

可能であるということばかり

私は、学生時代、英語が嫌いだった。

単純に単語が覚えられない。あんな不規則ばかりの規則を一つひとつ覚えていることなんてできないと諦めた。言語を話すときに、すべての文法的規則を瞬時に取り出すことなんて、不可能だという予測を立てて、諦めた。

多分言語という生きたものを、あまりにも機械的な視点で理解しようとしたのかもしれない。また、言語という、人間が本能的の習得できる能力を、記憶と理解という側面だけで、身につけようとしたのからかもしれない。

つまり、その言語が、実際に使うことができるのものだという実感が持てないまま、英語を学習しようとしたのだと思う。

そのような英語学習にまつわる説明、解説、理解には、「可能である」ということしか述べていないような気がしてならない。それが、「難しい」ということは読んだことも、聞いたこともある。しかし、努力などによって、「超えられないもの」があるのだということを、しっかりと書いてくれている文章に、私は巡りあったことがない。

ここでは、言語習得の不可能性について少し触れてみたい。

 

超えられない壁とは

幼少時代に生きている(使われている)英語に触れない場合、失われてしまう能力がある。

そのひとつは、英語の音を聞き分ける能力である。たとえば、「r」と「l」の発音を聞き分けることが難しいことは誰にでも聞いたことがあるであろう。

この際に、よく「難しい」という表現を使う。「難しい」とは、どういうことなのだろうか。

「絶え間ない努力によってしか、成し遂げられない」という意味でも、「難しい」という描写を使うことがある。私は、多くの人たちは、この意味で使っているように感じる。

ところが、ここで、「難しい」とは、多くの人々にとって「不可能である」という意味なのだ。

東大の入試に入ることは、「難しい」。これは、「すごく努力すれば、可能である」ということなのだろうか。違う。多くの人には、「不可能である」という意味なのだ。努力だけの問題ではない。言い換えれば、東大の入試が要求する知識量、問題解決能力を得るために努力し続けることなんかできないのだ。わけがわからないことを積み重ねても、わけがわからない。

同じように、「r」と「l」の音の違いなんて、分からない。何度聞いてもわからない。わかるようになったような感触を持つこともある。しかし、残念なことに、その感覚は、スーッと抜けていく。

 

他の越えられない壁

すると、英語という言語が奏でるハーモニーの一部を聞こえていないことになる。

そのため、英語の言葉遊びというような種類のものがよくわからない。たとえば、ダジャレである。ある特定の音が、「普通」の意味と同時に、「ひねった」意味も伝えてくるとき、私には、一向に理解できない。よって、笑うこともできない。

英語の人たちが英語で冗談を言っている時に、一緒に笑えないなんてなんて悲しいことなのか。

ここで、笑えるときは、そのダジャレを事前の知識として知っているという場合に限られる。

 

他国の人が日本語で超えられない壁

日本に長く住んでいて、相当流暢に日本語を話すことができるようになった、海外からの人を何人か知っている。

そのような人がどの程度日本語を身につけることができたのか理解すると、そこには大きな壁があるように見える。

それは、漢字の感覚をつかむことができていないということである。読める漢字の数ではない。漢字の感覚とは、知らない漢字や、熟語を見ても、なんとなくその意味を推量する能力のことである。

これは、小学校から中学生に漢字にさらされない限り、身に付けることが「不可能」なのではないかと想像している。このことに対して、しっかりとした研究を読んだことはないので、読んでみたいと思っている。

 

ニュージーランドで

成人になって、ニュージーランドに移民してきた人たちと話す機会が何度となくある。この人たちの英語能力を見ている限り、言語習得の「不可能性」を感じるのだ。

言語習得が進まないという印象を持つのである。それは、知っている単語の数が向上しないという意味ではなく、いつまでたっても、相手が言っている言葉をうまくキャッチできないという状態にとどまるし、発音が良くならないということである。

すると、「自然と」言語を習得できる年齢を過ぎてしまった人たちには別のアプローチが必要となるのは避けられない。それは、その人がどのような種類の言語を必要としているのかという視点、どのレベルまで狙えるのかという目標設定によって、修得する言語の特定の側面を見出す必要があるだろう。

私は、英語圏で生活しているが、英語を第一言語とする人たちが使う文章に含まれる「ゆらぎ」をうまく扱えない。それは、文法的に正確ではない(かと言って、間違いではない)表現である。ネイティヴには、それがわかってしまうのだ。しかし、それがどの範囲で、相手に「理解されるのか」の感覚がない。

そのため、英文法に忠実な形で、相手に誤解のいない意味を伝えるしかできないのである。それが、私が狙える目標であり、確実にしていきたいと思っているところである。

 

英語を教える人は理解しておくべき点

この言語学習における「不可能性」について、例外的に乗り越えてしまう人がいるとしても、多くの人びとにとって大きく立ちはだかる壁があることを、英語を教える人は理解すべきだろうと思う。

自分が幼少期から学んできた方法で、第二言語も学習できるというような考えを持たないでほしいと思う。しっかりと、「超えることが不可能であろう領域」を知っていてほしい。

できれば、自分にとっての第二言語習得がどれほど難しいのかという実体験によって、学んで欲しいのではあるが、そんなコミットメントをすべての人に要求することはできないので、少なくとも「理解」して欲しいのである。

 

余談

言語習得の不可能性について、もうひとつの側面について。ニュージーランドで生活しているが、日本の語学学校で英語を身につけることができたという人に、私は会ったことがない。私が知っている範囲も限りがあるが、日本の語学学校でどの程度身につくものなのか、その研究などあるのだろうか。

 

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