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EMI (English as a Medium of Instruction)

"Codeswitching in University English-Medium Classes"

EMIという言葉を聞いたのは、以下の著書の編集をしているロジャー・バーナードとその妻のユカリ・バーナードからである。ユカリさんは、私の翻訳パートナーでもある。彼女と一緒に三冊本を今まで訳している。

“Codeswitching in University English-Medium Classes Asian Perspectives” by Editors Roger Barnard & James McLellan

 

書籍版 キンドル版

 

この本を読んで、思ったことがたくさんあるので、少し書いてみたい。

EMIとは

さて、EMIとは、English as a Medium of Instructionの略である。単に、English-Medium Instructionと表現することがあるようだ。

EMIの訳語はしっかりと定まってないのか、Wikipediaの「Medium of instruction」の項目で日本語を見てみると、表題にこそ、「教授言語」となているが、次のような代わりの訳語も羅列されている。

教授用語、教育言語、媒介言語、教育語、教授語、媒介語、教育媒介、教授媒介 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E6%8E%88%E8%A8%80%E8%AA%9E

要は、英語を用いて、何らかの教科を教えていくことである。つまり、「教授言語としての英語」ということになるであろう。

ここで、重要な事は、英語の授業を英語で教えるということも、広義には含まれるのであろうが、焦点となっていないことである、と思う。

そのため、EMIというような広い意味を含ませた表現が用いら得ていると見るべきであろう。

英語という言語の重要性

この視点は、私が「英語」という存在を今まで理解してきたことに接近している。私は、今まで、英語という言語そのものに惹かれたことはない。そして、今後もないと思う。

しかし、英語を用いてしなければならないことがある以上、英語という言語をもっと上達させたいと切に願っている。また、英語を用いないとできない領域には純粋に興味をひかれる。それは、他の言語を話す人との対話であったり、英語という言語で提供されている情報である。

この意味で、Medium of Instructionとしての英語が私にとって大変重要なことになるのである。

英語を媒体として使用しなければならないニーズ

自分の母国語(L1というらしい)が十分に発達している時に、第二言語である英語(L2という)を媒体として持ちなければならない理由があると思う。

まず理由として、第一に挙げられそうであるが、動機付けとしては弱いのではないかと思うものを考えてみよう。

それは、単に「英語が話せるようになるとかっこいい」というような、皆が抱く希望であろう。または、単に一般論として、「これからは英語が必要となる」というような、よく耳にすることであろう。

人によっては、これが必要かつ十分な動機付けになることもあるはずではあるが、みんなにあてはまるわけではない。何故ならば、「できれば話せるようになりたい」というような程度で、第二言語を習得できるほど簡単なものではないからである。実に、長期間に渡るコミットメントが要求されるのだ。

そして、本人の努力の問題だけでなく、その人が置かれている環境というものが多分に影響を受けるはずである。また、ある年齢(多分、中学生以上)に達してから遭遇する言語を苦労なく習得できるわけがない。

すると、ニーズとしては何があるのだろうか。それは、多分、それを利用しなければ、その目的のことを成し遂げられないという状況が目の前にあるということであろう。

たとえば、英語を話す人と一緒になった時、ある製品を利用するために英語のマニュアルを読まなければならない時、または、英語の文章を読まなければ実質的な損失を生じる場合などであろう。人によっては、英文を書かなければ、その地位を失うというようなことも大きなニーズである。

ニーズを直接感じることのできない環境

ところが、日本は、英語という言語の媒体を必要とされている状況が殆ど無い。まったくないと言っていいだろう。

ロードショーでは、吹き替え版も同時に公開される。英語圏のベストセラーも順次翻訳される。日本語で十分なのだ。

日本の学生にとって、もっとも身近に感じることのできるニーズは、入試の点数であろう。英語を用いて広がる世界に魅せられて、英語を身につけたいという時代ではない気がする。

日本がまだ発展途上にあった時、皆が日本はまだ貧しいと思っていた時、英語という言語を習得できれば広がると想像できていた世界に対するあこがれは、もう過去のものだろう。

車だって、家電だって、パソコンだって、携帯電話だって、日本のものが良い。これは、日本人だけでなく、他の国の人達だって認めている。

文化的な側面にしても、(以下のことを「文化」と言ってしまったら怒られるかもしれないが)アニメにしろ、ゲームにしろ、世界に影響をあたえるほどになっているものもあるくらいなのだ。

単一言語圏の日本では理解し得ないこと

ところが、ユカリさんに話を聞いてくと、世界はもっと大きな動機付けによって、英語という言語媒体を利用することに向かっているようだ。

それは、大変大きなニーズを伴うものである。そのニーズとは、英語という言語を利用できない限り、世界から取り残されるという種類のものである。そこには、国家としての、あるいは民族としての危機感が背景にある。

このような危機感からもたらされる動機付けは、大きなものであろう。

すでに、世界的な動向として、英語を英語で教えるというような呑気な話をしているのではなく、科学技術、社会科学、文化、歴史などの領域を、英語そのものを用いて、教えていくという方向性に動いているというのである。

大いなる懸念

この話を聞いて、いろいろな疑問が浮かばない人はないのではないだろうか。

その疑問とは、ただ漠然とした「そして、本当にそれでいいのか?」というものに
はじまるかもしれない。または、「自国語で培ってきたものを捨てるということになるのではないか?」「第二言語の英語で本当に『教えること』ができるのか?」など、ブレインストーミングをすれば、いくらでも出てくるだろう。

そのためにはリサーチが必要となる。しかし、どんな研究が必要なのだろうか?

門外漢の私にはよくわからない。

しかし、冒頭で紹介した本は、興味深い視点を提供してくれるように感じた。少なくとも、いろいろなことを考える上で、砂漠に放り投げ出されるのではなく、起点となる視点を提供していくれていると感じた。

さいごに

「英語で教える大学授業における言語スイッチング―アジア圏の状況(仮題)」は、私にとってこのEMIのことを考える入口になった。日本のことだけでなく、他のアジアの国々のことも、ある程度理解できることも大切であろう。

また、言語取得ということを研究することの複雑さに思いを馳せる機会となった。

何らかの形で英語に携わっている人には、是非おすすめしたい一冊である。

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