ナラティヴ・セラピーの入門書を書くあたって

ナラティヴ・セラピーを紹介すること

ナラティヴ・セラピーがそのようなものであるのかを説明した書籍はそれなりにある。「ナラティヴとは」というくだりで書き出された文章は、いろいろな切り口があるが、たぶん説明する方も、苦労して書いているのだろうと思う。

ナラティヴとは何かという説明をし始めると、どんどん脇にそれていくような気持ちになるときがある。前提的な説明をすればするほど、読者が聞きたいと思う話ではないことを説明しなければならないからである。

最近思っているのであるが、「ナラティヴとは」というくだりから始まらない、カウンセリングの入門書をかけないだろうか?

全編にわたってナラティヴ・セラピーのことを紹介するが、ナラティヴ・セラピーの入門書にあるように、ナラティヴとは、外在化とは、脱構築とはなどいったことのくどくどとした説明をしないで、読者にナラティヴを感じてもらいながら、カウンセリングの初歩を学んでもらいたいということである。

 

比較対象を提示することのジレンマ

ナラティヴ・セラピーの説明の仕方として、いかに既存のサイコセラピーとは異なるのか、ポストモダンのサイコセラピーはどこがちがうのかということに焦点をあてている気がする。

このようなやり方で興味を引かれるのは、比較対象の相手を説明することによってしか、ナラティヴのことを説明できないのである。そして、ナラティヴの理解というものが、他の心理療法との差異としてしか認識できなくなる。このような理解も必要だろうが、相手のあらを探しているだけのような気になる。

そして、何よりもナラティヴを語ると言いながら、相手のことを多分に語っているのである。

 

最初に身につけた技法は強い

どうしてカウンセリングの入門書なのかというと、最初に身につけた技法は、その人の中で強く生き続けると思うからである。最初に身につけた技法から、新たに身につけた技法に完全に移行することができないような気がする。

いろいろな人にナラティヴのことを伝えようとしたが、その人が持っているものを基盤としてしかナラティヴのことを理解りかいできないのだと痛感させられる場面が何度もあった。それは、その人のことであるので、別にいいのであるのだが、伝えたいと思うところが、そのこと故に伝わらないということがあった。

つまり、私たちはそれほど最初に身につけたものの影響を受けているのだということである。よって、最初からナラティヴを学んでもらうのはどうであろうか。ナラティヴの面倒な専門用語なんかいらない。何をするのか、どのようにするのかを十分に理解してもらうことによって、専門的な側面は後からついて来るのではないだろうか。

 

本当にかけそう?

何となくいけそうな気がしているのだが、もっと詳細を考えないといけないですね。今は、昨年立ち上げたダイバーシティ・カウンセリング・ニュージーランドの作業で、まとまった時間を取ることができないので、将来の企画候補として考えておきます。

 

 

Introduction