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吃音ショートコースで学んだこと1

10月11日〜13日に日本吃音臨床研究会が主催する「第20回吃音ショートコース」に講師として呼んで頂きました。日本吃音研究会の伊藤伸二さんのチームといろいろと話をする中で、いろいろなことを学び、いろいろと考えました。

私が学んだことを言葉にできるところから記録していきたいと思います。何回か書いていくことによって、自分の考えをもう少し整理できるのではないかと思います。以下の文章はまとまりのないものです。

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臨床心理士としてそれなりに、世の中の問題についてアンテナを張ってきたつもりですが、なぜこの吃音の問題を私はキャッチできていなかったのだろう、というのが、伊藤伸二さんから連絡をもらってまず思ったことでした。世界的にも人口の1%にどもりの症状を持った人がいるのであれば、統合失調症の割合と変わらず、たいへん多くの人がこの症状を持っていることになります。そして、話すときに分かってしまうどもりが、その人の人生において大きな重荷になってくることさえ容易に想像できたはずなのに。

この時に感じたのは、私が吃音の問題をキャッチできなかったことに対する羞恥心であったのですが、同時に、なぜ私の手元に届いてこなかったのだろうかということにも興味を引かれました。心理臨床の世界に身を置いて、この問題に遭遇することがなかったのがなぜだろうという疑問です。

これは正確に伝えるべき点です。親からの相談を受けるときに、子どものどもりについてまったく遭遇することがなかったわけではありません。しかし、それを、真っ向から取り組むことができなかったのです。これは、吃音というものを私がしっかり理解していなかったからです。ただの一過性の症状に過ぎない可能性があると思ったからでしょう。しばらく様子をみましょう、としていました(この言葉は私が一番避けようと思っているものなのに、この件については使っていました)。

それでもなお、自分の認識が甘かったのはなぜか、自責だけに囚われないで考えていく必要があるとも考えたのです。

それは、この領域が言語的な問題として扱われてきたことに由来している可能性があるのかも知れないと考え始めました。どもりを発語の障害、つまりは構音障害として見なし、その部分だけに取り組むことに専念してきたのではないかという懸念です。

私たちが生きている世界に大きな影響をもたらしているモダニズムでは、ものを細分化して扱ってきます。そのことを、全体の一部としてみなし、その全体から切り離すことができないとする見方を取りません。どもりであれば、どもりという症状だけが焦点となります。

これは、支援する側からみると目的が明確な支援につながります。やりやすいと言い換えてもいいでしょう。やりやすいからといって、治療しやすいということにはならないのが重要な点です。そのことに専念する姿勢は、支援者側の理論を単純化し、することを明確にします。しかし、それは、切り取られたものに対するものであって、その単純化された支援が全体にどのような影響をもたらすのかについて考察することにはならないのです。この領域は複雑なものとなりますので、単純な方法論では研究できないからです。研究できるぐらいの単純なものが好まれるのではないかと、チクリといいたくなるところです。

専門家にとって、一番厳しい内省は、どれだけ支援できているのかという点ではなく、自分の存在や意見、行為が問題全体にどのような影響をあたえてしまっているのかということです。つまり、支援しているようで、全体としての状況を悪化させているということがあり得るのです。子どもをかわいそうな存在と見なすことによって、子どもの自尊心を奪ったりしてしまうこともできるということです。子どもにストレスをあたえないという名目で、もっと求めてよい領域を求めることができなくさせてしまうことだってあるでしょう。自分にはそういう側面はないと言える人は要注意です。

対人援助職に就いている専門家は、モダニズムの世界で充足できると信じることができるほど能天気にしていることはできなくなってきています。どもりに対して流暢性、不登校に対して登校、うつに対して元気という図式の方向性では、まったく持って不十分であるということです。「なぜそれだけでは不十分なのか?」について、思いをめぐらせること、人と話し合うことが重要になるのです。この領域に踏み込めない、思考できないのであれば、それ自体が大問題ということなのです。

 

 

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