バカの壁のシリーズは以前に読んだのですが、久しぶりに養老孟司さんの本を読ませてもらいました。
簡単な文章で綴っていますが、本書の内容からいろいろと考えることがありました。その内容を楽しめることは大切なのでしょうが、そこから考えていける本は貴重です。
文章をどのように読むのか。これは、文章の正しい理解の話ではなく、自分自身の立場、今まで蓄積してきたものに依存するだと思います。私は、この文章をナラティヴ・セラピーを基盤とするカウンセラーとして読ませて頂きました。学ぶところ、じっくり考えてみなければいけないと思ったところが多数あったと感じました。
脳と身体
ナラティヴ・セラピーを支える社会構成主義では、言語の役割をたいへん重要視します。極端な議論を読むと、これがすべてを作り出すかのような表現を用いていることもあります。
しかし、養老さんの文章を読んで、やはりしっかり考えておかないといけないと思うのは、身体のことであると再確認しました。ナラティヴの議論では、この身体のことはほとんど出てきません。
ナラティブが単なる言葉のことにならないためにも、身体のことを常に考えて億必要があると思った次第です。 私が身体ということに関係して思うのですが、言葉もそれぞれの身体(脳も含む)を受容体として受け取るのですから、その言葉の意味合いも異なるのです。そのため、言葉を絶対的な意味合いを持つ、または、社会的な文脈に依存するという議論だけでは不十分であると考えています。それは、その人の「受け取り方」に依存もしているのです。それは、その人の独自の認識ということなのでしょう。これは、人と話をしていて、自分の話をどのように理解したのかを確認するとき、その個人差に現れると思います。
バイアス
私たちの判断を効率的におこなうために、または最終的な判断を下せるためには、物事にバイアスがかかっている必要があるというのは、たいへん興味深い説明でした。このバイアス(偏向)を普通の言葉で言えば、「好き嫌い」と言うことになります。
「科学的」という言葉に見せられる人がいますが、自分の「科学的」がいかに自分の「好き嫌い」に影響を受けているのかについて、もっと自覚的である必要があると思います。
どう見ても自分が、中立的・客観的な態度で物事を見ているとは思えないので、私の姿勢が科学的、客観的であるといわないでおこうと思っています。私は、多分に主観的なのです。それでいいのだと思っています。ただ、そのバイアスに気づく努力をしたいのです。
「ああすればこうなる」が通用しない世界が自然
将来が予測可能であると感じさせる世界が、現代社会では非常に発達してきてしまっているということです。養老さんは、その世界を「都市化」と呼んでいます。
一方で、将来のことは分からないという世界が自然だというのです。子供を産むということは、自然なので、予測不可能因子と認識され、避けられてしまうようになるのは都市化された社会では至極当然のことであるということでした。
「ああすればこうなる」という世界の中でカウンセリングはできないのですが、その世界観が強い人がカウンセリングの技法を学ぶとどうなるのだろうかと、思いをはせることでした。たぶん、その技法をしっかりとあてはめようとするでしょうし、それがその通りにいかないときには、技法そのものを疑うことは難しいのではないでしょうか。自責か他責に走るような気がします。
引用したいところ
学問をやるという人は
「学問をやるという人は割合に面倒くさいことを考えるのが嫌いで、二つあるというと、もうそれだけで錯乱する場合があります。どちらか一つにしてくれと思う。それでも、しかたがないから私は二つを認めます」(133頁)
自分の身についたものだけが財産
「いまの若い人はよくお金のことをいいますが、そうではない。自分の身についたものだけが財産なのだという知識は、極端な状況を通らないとなかなか覚えないことです…墓に持っていけるものが自分の財産なのです」(245頁)
「覚悟」
「昔の言葉で、もうなくなった言葉を考えると、私はおもしろいなと思います。最近の人は『覚悟』なんて絶対にいわない。覚悟というものは何だったのか。覚悟は死とよく結びつく。そこからもわかるように、覚悟というものは先行きの不透明なときの態度のことです。この先どうなるか分からない、それでも何かしなきゃならないとというとき、覚悟と昔の人はいったのだと思います」(269頁)