「教育の本質はおせっかいである」と聞いて

 ニュージーランドにいると日本の本を読む機会が限られています。そのため、友人が帰国したときに買って帰ってくれる本は貴重なものです。内田樹さんの「日本の反知性主義」に引き続いて、同じ著者の「最終講義」を楽しんで読んでいます。内田さんの著作を読んでいいなと思うのは、私の中で何か化学反応が起き、その事でいろいろなことを考えるきっかけになることです。

 まだ、この本をまだ途中まで読んだところなのですが、最後まで読んだら、今ここで書きたいことがどこかに消えてしまいそうなので、今書いておきます。

 「教育の本質はおせっかいである」というくだりがあります。今、現代社会では、学校が生徒のニーズに合わせ、そして、生徒が学べることを明確にして、教育が提供されています。内田さんの言うところでは、教育の最初はそうではなく、教えたい人が、その事を教える必要を感じ取った人が、その事に興味を持つ人を発掘したくて教育を始めたということです。

 その際に、当然教えたい人間が引き受けるべきリスクというものが生じます。いちばんのことは、生徒が集まらないと言うことです。そのリスクは、教える人間の覚悟として引き受けるべきであると言うことです。

 私は、ナラティヴ・セラピーをニュージーランドで学びました。これを何とか、日本語で利用するようにしたいと思い、今までに、いくつかの本を訳してきました。それは、このようなおせっかいなものでした。日本の読者が、その事を必要であるとニーズの調査をしたわけではありません。ただ、私の友人と伝えたいという思いで一致を見て、それを訳していったのです。

 また、日本のスーパービジョンのあり方について、どうしても黙っていることができずに、スーパービジョンの本も訳しました。

 学術書の翻訳については、知らない人も多くいるのと思いますが、はっきり言って割に合いません。一日の日当ぐらいしかもらえないのですが、実際の作業は膨大です。原著を読むことから始まり、最終稿をチェックするまで少なくとも10回以上は読みますので。それも、気軽に読書を楽しむような読み方ではないです。一字一句読む努力をするのです。集中力が途切れ途切れになり、品質があまり均一になっていないところもありますが。

 だらかといって、このことが無駄であるという結論に持っていくことはしません。ただ、そのおせっかいな心に導かれてしているのだと、内田さんの文章を読んで実感したのです。たぶん今、私が取り組んできたことに、「教育の本質である」という描写が与えられたことのうれしさを味わっているのだと思います。

 このままでは、ナラティヴ・セラピーの実践が日本に根付くことはないのだろうと思っています。それを実践している人があまりにも少ない気がしています。そのため、ナラティヴ・セラピーの講座、これを学校というレベルまで持っていくことができないだろうかと、夢想しています。

 内田樹のいう「教えたい人間が引き受けるべきリスク」を請け負う気持ちがあれば、始めることができるのだという考えは、今の私にはたいへん魅力的です。

 

Broderick