日本吃音臨床研究会の依頼で、その会報誌に原稿を書きました。タイトルは、「どもりのアイデンティティ」です。
カウンセラーとして人に向き合っていると、そこで語られる物語に何からのテーマ(主題)を見出すことがあります。それを、自分なりにゆっくりと考えていくと、時に文章としてまとめることができるところまで、言語化することができます。
一方で、テーマを与えられてから思考をはじめ、言語化することができるようになることもあります。
日本吃音臨床研究会の伊藤伸二さんとは、それほど古い付き合いではありません。伊藤伸二さんがブログに書いてくれているので、はっきりとした日時が分かるのですが、2013年1月13日に初めて東京でお会いしました。http://www.kituonkokufuku.com/archives/1701381.html
その後、三日間の吃音ショートコースに呼んでいただいたのを機会に、吃音についていろいろと学んでいるところです。
さて、今回頂いたお題は、「吃音と発達障害」についてですが、このタイトルで私は何を言語化できるのだろうかと興味があったので、引き受けました。そして、このタイトルで書き始めたのですが、途中で、タイトルを変更し、「どもりのアイデンティティ」としました。
私たちには、目前に、ある問題が提示されます。そして、その問題をなんとか解決しなければならないという切迫感が生じます。
しかし、この時に、その問題の提示のされ方、つまり問題の描写、あり方、存在に立ち返って考えることはあまりしません。そのようなことはせず、ただ、提示されている問題の不在を目指して、取り組むことになります。
例を上げて見るとわかりやすいです。不登校という問題について、子どもを登校できるようになるのを目指すのが自明なこととして誰の目にも見えることでしょう。どもりで言えば、どもらないようになるということです。この「自明性」、このわかりきったことを、本当にわかりきったこととして、受け取っていいのかどうか問わないということです。
大体、かゆいところがあるので、掻いてもらって問題を解決するような単純な話であればよいのですが、私たちの目前に現れる「問題」は、我々が悩むだけのことがあるぐらい面倒な問題なのです。面倒だということは、問題の不在がそんなに単純にもたらされると楽観的になれるようなものではないということです。
当事者も、その問題について、その人なりに一生懸命に取り組んできたのです。それでもなおかつ、人の手を借りなけければならないという自体からも、その問題の複雑さ、多様性を汲み取ることができます。
つまり、問題の不在なんて、そんなに簡単にもたらすことはできないということです。つまり、不登校を学校に戻すなんて、本人も苦しいし、家族も苦しいし、学校側も途方に暮れるということです。どもりだって、完全に治す手段なんてないわけです。
そうすると、私たちが取り組んでいる「問題」は、その問題が提示されている仕方のまま、私たちは取り組んでいいのだろうかという視点からもう一度問題を考えなおす必要があります。
その問題は、そのように解こうとするから、解けないかもしれないのです。つまり、問題の立て方自体が問題なので、その立て方自体が私たちを迷宮に陥れているのだという可能性を考えてみるのです。つまり、最初から、その問題の立て方では、その問題自体が解けないようになっているかもしれないということです。
例えば、多くの人が、そのことを問題として扱うのをやめるとすれば、どうなると思いますか? それは、問題として、私たちの目の前に居座り続けることはできなくなります。私たちを苦しめる問題の延命は、実は、それを問題として扱うことを糧にしている可能性を考えるのです。
つまり、問題を存続させているのは、そのことに生真面目に取り組む人々なのだという、ある意味恐ろしい考え方もあるのです。恐ろしいと書いたのは、私たちが一所懸命取り組んでいるからこそ、その問題はいつまでも焦点化され、そこに居座っているからからもしれないからです。
先日、難民としてニュージーランドに来ている人にカウンセリングをしていて、以前に医師が本人に提供した、「うつ病」および「パラノイア」という名称が、本人を苦しめ、不安に陥れ、将来、自分は変なことをするようになると信じてしまったのだと、気付きました。そこで、その人は、そもそも「うつ病」でも「パラノイア」でもない、ということを本人と確認できたことが、本人にとっての安堵につながったのです。
もしこの時に、うつ病からの回復、パラノイアの治療に生真面目に取り組んでいたら、その名称からもたらされる将来への不安から開放されることはないと思ったのです。
問題に対して真面目に取り組むことは、問題が支配する王国で、真面目に働くことかも知れないのです。問題が支配する王国の外にでたら、問題のあり方が全然違って見えることだってあるのです。
この「どもりのアイデンティティ」という文章で、ではどもりに対して一体何ができるのだろうかということについて、ナラティヴ・アプローチという切り口で検討しました。
この本文は、日本吃音臨床研究会の機関紙(たぶん6月号)に掲載されます。