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不登校問題における「場」の話

 不登校という問題については、スクールカウンセラーとしての勤務が長かったので、相当いろいろと考えてきた。
 この問題について、今、ニュージーランドという場所から改めて考えると、日本にいた時よりも、もっと言い切って語ることができると感じる。日本でスクールカウンセラーとして働く前から、海外で生活していたこともあったので、考え自体が変わったというほどではない。しかし、言い切れるようになった。
 何が言い切れるようになったのかというと、不登校の問題は、子どもの問題ではない、それは、「学校という場」の問題である、ということである。
 学校批判を単にしているのではない。学校の先生を名指しで責めているのではない。
 学校という「場」は、社会文化的な影響を多分に受けている。何を教え、どのように振るまい、何を強調するのかというのは、学校の一教員が決められることではない。学校を取り巻く社会、学校に関わる者、そして、保護者が一体となって、その場を作り上げている、と見なすことができる。
 その意味で、学校という「場」に対する責任は、共同体として引き受ける必要がある。単に、どこかの長に責任をなすりつけるのは、無責任というものだ。
 さて、「学校という場」の問題というのはどういうことかというと、この「場」は、人が本来持つべき多様性を許容することができないようになってきているということである。この場で、個性は抑圧される対象でしかない。人と同じように振る舞うことに、膨大な気を使わないといけない場になってしまったのだ。
 子どもがのびのび自分らしさをだすことが、子どもの成長過程で大切だという主張に対して、今でも多くの人々から共感を得ることは可能だと思うが、そのことが大変難しくなっている。
 学校という場のあり方は、学校の規模やロケーションにあまり左右されない。中央集権的指導がもたらした偉業でもあるが、どこにいっても津津浦浦、日本の学校がある。学校を転向することがあまり功を奏さないのは、このためである。山村留学しても、日本の学校がある。
 黒柳徹子さん(トットちゃん)が通ったオルタナティヴな学校は今はない。すべて画一化された。
 全国どこに行っても、コンビニに行けば、同じ品質のおにぎりを買えるのはたいへんありがたいことである。ところが、人はさまざまななのだ。そのさまざまなあり方に対して、画一化されたものでは対応できない。
 日本で不登校状態に陥った子どもがニュージーランドに来ることがある。すると、当たり前かのように、学校に行けることが多々ある。
 これは、ニュージーランドの教育の質ではない。教員が特別優れているからではない。教員の質は、日本のほうがよっぽど高い。ただ、日本に比べ、画一化されていないため、多様性を受け入れること許容量があるということである。
 言い換えよう。ニュージーランドの学校はもっといい加減なのだ。そのいい加減さを許容する社会文化的な背景がある。
 不登校という問題を真面目に取り組む姿勢から、この種のいい加減さをもたらすことはないだろう、と思う。
 みんな、真面目に取り組み、もっと画一化をすすめるだけのような気がしてならない。
 また、スクールカウンセラーや学校ソーシャルワーカーが、この問題を学校の場という問題を意識することなく、生徒個人の問題、家族の問題、あるいは学校の先生の問題として対処するだけで十分なのかどうかについて考えていく必要があるはずである。
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