以前に英語版を読んでいましたが、やっと日本語翻訳版を読みました。できるだけ、ゆっくりと蛍光ペンを片手に読みました。その意味を噛み締めながら読むのには、まだ日本語のほうが向いているようです。
さて、本書を読んだ感想です。本書は、自分の感性、自分が求めたいことへの道標となってくれているというという感覚を持ちました。このような本との出会いは本当に貴重だと思います。
自分が日頃から強調していることは、その相手の言葉に対して、どのように返すのかということです。相手の発語に対して、どのような発語を持って応じるのか、ということ。そこに焦点を当てるべきであり、そこの技術を磨く必要があると思っています。
相手の発語にどのように応じるのかを検討するということは、単純なことではありません。それが単純なことととして見えるのは、その応答について、社会的で頻繁に再生されている表現をただ単に再生産していることしか目に入らないだけかもしれません。
相手の発語にどのように応じるのかを検討するためには、その視点が必要になるのです。オープン・ダイアローグにおいて、その視点とは〈対話〉であり、〈ダイアローグの思想〉です。相手の発語に応じようとしているその時、その視点が示唆していることを考慮する必要があります。〈対話〉という動的な場面において、そんなに悠長に考えている余裕はありません。そのため、それを何度も何度も繰り返し、練習してく必要があることなのでしょう。
また、オープン・ダイアローグに求められるものは、専門家自身が抱く不安に耐える力なのだということも理解できた気がします。相手がわけのわからないことを言っている時、取り乱している時、混乱している時、先行きが見えない不安に耐えること。この力が必要なのだと思いました。これは、簡単なことではないのです。この点は、簡単にできるようなものだと、決して伝えるべきではないのだと思うのです。でも、「ここが正念場」として踏みとどまることを伝えるべきだと思うのです。
最後に「訳者あとがき」ですが、オープン・ダイアローグの譜系について、家族療法の側面についても書いて欲しかったなと思いました。またフーコーのいう権力の行使ですが、「ミーティングが進行して〈対話〉が生まれようとも消失しません」。それは、不可避なのです。(フーコー流の「流」もなんか引っかかっているのですが・・・)