人と話をしていて、見事なぐらいに、周りの状況を把握し、その場で何が起きているのかを理解し、その場のことを色々と考え、実行に映すことができる人たちがいることに気づくことがあります。
彼ら/彼女らは、それほどまでの能力をもっているのであれば、さぞかしその能力ゆえに、受け入れられ、みなから理解してもらえそうですが、実は、そうではないのです。
逆にそうであるからこそ、学校でいえば登校できない、会社でいえば出社できないという状況に陥ってしまうということが生じることさえあります。そこまでいかないまでも、自分の存在が他っと違っていると感じ、違いがあることに悩んでしまうことがあるのです。
この点についてもう少し考えてみましょう。
気づく能力が高いということは、他の人と同じ風景を見ていながらも、そこに見い出すものが違うということです。その能力は、みなの前に同じように広がっている風景の中に含まれる矛盾点、将来起こりうる予測、人びとが必要なことなどを見い出させてくれます。ところが、他の人には見えないことなので、周りは、そのことを理解することができません。
この時に、自分の能力が高いゆえに、そのようなことが起きるというふうには考えられないようで、自分は違う、間違っている、見当違いなことをいう、不安が強い、考えすぎるなどのように、その能力を評価するどころか、それがあってはいけないことのように感じてしまうのです。
この点について、ナラティヴ・セラピーの質問によって、どのように正当な評価を与えられるものかどうかについて、焦点をあてていくことがあります。この過程によって見えてくる本人像は大変興味深いものです。
それは、自分がもっている力とか能力に対する気付きの過程であり、正当な評価を与えるプロセスなのです。このことがしっかりと見えてくると、過去に自分に起こっていたことの意味が変わる可能性が生まれます。それは、自分が違う、変わっているというような視点からもたらされる理解ではなく、自分の能力ゆえに生じてしまったという視点からもたらされる理解なのです。
今この文章を書いていて、不登校状態に陥ってしまった、ある中学生の女の子のことを思い出します。空き教室となっている部屋で話をしましたが、人としての能力、他者を気配る能力、そして中学生にして接遇マナーの能力は、申し分ないものでした。そして、それゆえに、教室にいくことができないのです。
私たちは、このような感受性を救う必要があるのではないかと思うのです。
このような人びとは、その場がしっかりと、滞りなく流れていくことを可能にしてくれます。残念なことに、そのことに気づくことができない人たちは、その人たちの貢献に気づけず、その人たちがいなくなってからその有難味に、事後的に気付けるのです。
そうではなく、その時その場で、精一杯、その人たちのことを気づくためのプロジェクトを立ち上げる必要があると思うほどです。そして、そのプロジェクトによって、自らの目では気づけない人たちに橋渡しをしてあげるということです。
このブログを「感受性を救え!」というタイトルで書き始めましたが、この言葉で適切に表現できているかも含め、ナラティヴ・セラピーのプロセスの中で、どうやって取り組むことができるのかについてもう少し考察を含めていきたいと思います。