何といおうととにかく、望みのすべてのケースを特性づける、一つのきまった特徴群は存在しないのである。(中略)だがそれにもかかわらず、 君が望む定義を与えたいなら、すなわちきっぱりした境界をひきたいなら、君の好きなようにひいてかまわない。だが、その境界が実際の用法に一致することは決 してないだろう。実際の用法にはきっぱりした境界がないのだから。(Wittgenstein, 1958/青色本 p.048)
震災後の体験。このことについて考えてきました。3.11後、そして、2011年5月から7月まで気仙沼に滞在したとき、そして、その後で、そしてまた、2012年5月から気仙沼にもどってから、被災体験とは、その人たちにとってどのようなことなのだろうかと、考えてきました。
何度となく「家を失うとはどういうことなんだろう」と考えてきたし、失った人に聞いてみました。そのような中で、その意味することは、人によって、全然違うのだと理解できるようになった気がします。
どんなの大きな地震を体験しようと、どんな大きな津波を見ようと、どんなに大切なものを失おうと、どんなに大切な人を失おうと、それは、ひとりひとりが感じていること、理解していること、意味づけていること、記憶として残っていることは、まるっきり違うということなのです。
それぞれの体験の差は、私が現場に入る前に感じていたよりも、はるかに大きな差なのであると、気づいたのです。
ところが、一般化への欲求は、一般人だけでなく、カウンセラーである私たちにもあります。そこで、「被災者とは」、「被災体験とは」という括りで、何かを理解したくなります。そのことに対して、要約する概念が欲しくなるのです。そして、被災についてどのような話があるのか見ていくと、ある方向性を持った話が繰り返されているのかもしれないということを危惧しています。
その、ある方向性の話に沿った体験であれば、当事者でも、話題にすることもできるでしょう。ところが、一般的になってしまった体験談とは違う感覚や考えを持っている場合、当事者は、封印してしまうことになる可能性があるのです。「自分だけの、特殊なものなのかもしれない」、または「そのように感じる自分が変なのかもしれない」として。
カウンセラーとして、当事者からの話を聞くときに、今回の東日本大震災がどのような意味を持つ可能性があるかについて、見当をつけておく必要はあるでしょう。その時に、非常に幅の広い可能性を考えておく必要があるということです。そして、それが、「その人」の体験はどのようなものであったのかを、その人の視点からしっかり聞くということにつながるのです。
ここで、どんな研究報告も、どんなカウンセラーの体験も、それが、ある方向性の要約的なものが流布し、それが主流になってきた場合には、危惧しなければいけないということも、ここで示唆しておきます。
Witgenstein, L. (1958). The blue and brown books. Basil Blackwell. 大森荘蔵(訳) 2010 青色本 筑摩書房
青色本 (ちくま学芸文庫) | |
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン 野矢 茂樹
筑摩書房 2010-11-12 |
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