ナラティヴ・セラピーにおいて外在化という代表的な技法があります。これは、「問題の外在化」として固有の技法と見なすのではなく、セラピーにおける会話のいたるところで、このエッセンスを利用して話すようなものです。そのため、このような話し方を「外在化する会話法」といいます。これは、「その人が問題である」としてしまわないために用いられる話し方です。
このような話し方は、相手にどのような影響を与え、相手がどのように感じるものなのか、自分にはよく分からない部分もあります。そのため、どう感じるものなのか出来る限り聞いてみたいと思っていました。
最近、クライアントとしてはなく、職員として私に対応してくれた人から、次のようなコメントをもらいました。私に対応してくれた上で、私が書いた「ナラティヴ・セラピーの会話術」を読んでくれたのです。
まず、外在化のこと。
国重さんと自分が話していて、色々話せるのはどうしてなのだろう、よく自分で考えていなかった部分を考える構造になるのはどういうことなのだろう、といつも思っていました。
それが本をいただき、理屈が少しだけわかった気がしたのです。
本の内容について、話したいことも読みながら何度も伝えたいなと思ったりしたのですが、そのままになっていました。
国重さんと話すとき、自分だけではなく誰もが問いかけに一旦考えますよね?
そんなにすぐにパッと出てくる返答の発問ではないこと。それが自分の中と切り離してもらえる作業なのだと感じます。
例えれば…
そのままだと病気になってしまうかもしれない状況から、病気の原因を体の中からとりだしてもらう、というあたりでしょうか。
それが自然に普通に病院じゃないところで通常の生活を送る中でできることに感動です。
普段の会話の中でそれができるってすごいことなんじゃないかな、と思うわけです。
この文章の中で、私が興味を持つのは、このコメントをくれたAさんが「よく自分で考えていなかった部分を考える構造」があると感じていることです。ナラティヴにおいて、そのようにできる構造を提示することがまず大切と考えていますので、その構造があるかもしれないということを感じ取れていることになります。
このAさんに対応してもらって、Aさんはナラティヴ的な発想を身につけることができるかもしれないと私が感じたのは、このようなことから来ていたのかと思ったところでした。表面的にある質問の言葉を追うのではなく、その質問の構造に気を配ることは大切なことになると考えていますので、そのエッセンスをつかんでいたのでしょうね。
また、「誰もが問いかけに一旦考えますよね?」という状況についてですが、この時、ありきたりの、答えの用意されいる返事を求めているのではないため、相手は自分の言葉で、自分の回答を見つけ出さなければならないということだと思います。
この時に、ありきたりの表現の中に潜む「自分が問題である」「自分がいけない」という部分が切り離されるときであると感じてくれていたと言うことです。まさしく、問題の外在化というものが狙っていることを、Aさんが感じ取ってくれたのであることを知ると、ナラティヴをする者としてはうれしい限りです。
そして、そのような会話が、治療的な目的だけでなく、日常的な会話に組み込まれることに価値があることを見出しています。このことは、ナラティヴ・セラピーが、一対一のセラピーにおけるものだけでなく、コミュニティワークに発展すべき方向性を持っていることと無関係ではないでしょう。
いずれにしても、このようなコメントをもらうことは、自分にとってはご褒美をもらった気分になります。またがんばっていこうという気持ちになります。ありがとうございました。