吃音の当事者たちからのメッセージを一言で表現できる気がしています。さまざまなことを学びましたので、この一言ですべてを言い表しているということではないのですが、三日間の吃音ショートコースを終えて、この言葉だけが明瞭に浮かび上がっています。
この言葉は、どもりを抱えている人たちに関わる人びとすべてに向けられたものですが、特に、言語聴覚士、言葉の教室の教員、保護者、そして、吃音を研究する人たちに向けられたものと感じています。
* * *
「どもりが悪いことである、と子どもに伝えない」
* * *
人はどもる症状で苦しむのではなく、どもる症状を悪く捉えてしまい、苦しむのです。そのような苦しみを大人が植え付けないで欲しいということなのです。
吃音は確かに特徴のある話し方をします。だから悪いことだということではないはずです。そのことを悪いことだと、植え付けてることによって、子どもたちに苦しみを植え付けることになるのは、その子どもを取り巻く大人であるということを自覚して欲しいということです。
この言葉は、啓蒙活動という領域に私たちを誘います。それは、どもりの症状を持っている人たちを取り巻く大人、子どもたちに対して、どもりのことをもっとよく理解してもらうという方向性なのでしょう。
そして、その際に、どもりを「かわいそう」とか、「哀れ」というようなことを伝えないということにもつながります。話すときに詰まったり繰り返すだけで、他のことはできるのであれば、別にかわいそうと思う必要もなく、接してあげるという方向性もあるはずです。
どもりが悪いこと、いけないこと、劣っているもの、という「考え」は社会でつくられ、維持されているものです。どもりをどのように理解するのか、どのように子どもたちに伝えるのかについては、私たちは選択肢を持っています。その選択肢を持っている私たちは、「どのような選択をするのですか?」と、問われているということなのです。