「話すこと」と「書くこと」 最近特に痛感しているのは、話すこととと書くことはまったく違うということです。当然と言えば、当然のことです。知らなかったわけではありません。でも、「ああ、そうなんだよな」と、身をもって痛感することがあると、あらためて書いてみたくなるのです。
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流暢に話すことができる人と接していると、書くときにも「言葉が出てくる」と思い込んでしまいます。ところが、筆を執ろうとしたときに、あふれ出していた言葉の元栓が閉じて、言葉が出てこないという状況があるのであろうと想像しています。その話していることをそのまま書けばいいのに、と思うのですが、書くときには何か違ったことが起こっているのだと思うしかありません。
私たちは生まれると、聞くことから始め、話すことができるようになります。その後、読むことを学び、書くことができるようになるのです。どちらが自然なのかと言うことになれば、聞くことと話すことでしょう。何らかの障害がなければ、これは、その家族やコミュニティに属していれば、自然と身につけることができます。
読むことと書くことは、文化というところに身を置いて学習しなければなりません。このことに興味を持つことができたり、その学習に向いていれば、あたかも自然のごとく身についていくことなのかもしれません。しかし、ディスレクシア(識字障害)の比率がそれなりに高いことを考慮すれば、それが誰でも自然に学習できるものであるとは言い切れないでしょう。
つまり、まず可能性として理解できそうなのは、書くことという行為そのものでつまづいてしまうと言うことです。何を書くかではなく、筆を操ることに関する問題があると言うことでしょう。
発達障害の分野を調べていくと、実際に鉛筆を使うことがたいへん苦手な子供に遭遇しますので、その可能性はあると思っていいでしょう。
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書くことは、技術の発展に伴って、筆や鉛筆などの手段だけに縛られることがなくなってきました。それは、キーボードであったり、携帯のキーであったします。近年になってやっと実用的になってきた音声認識の技術もあります。(ちなみに、私は音声認識の技術を私が30年前から知っていましたが、それは難しい技術でした。よくここまで来たと思います)
ところが、それでも、書くという言う行為は別のこととして、横たわっているのではないでしょうか。
次の切り口として、書き言葉と話し言葉が異なるという問題を考えることもできます。
話す言葉は書く言葉とどのように違うのでしょうか。表現の方法、用語などいろいろとあるでしょう。話し言葉で許されている言葉も、書き言葉では使えないものがあります。
つまり、話し言葉を学んだとしても、書き言葉は違うのだということになると思います。このように私が今書いていても、このようには話さないと思うところが多々ありますので、これも理解できます。
この視点に立てば、書き言葉を教えてあげる必要があるという解決方法に結びつくでしょう。
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ふたつの可能性を踏まえた上で、実は、この点が大きいのではないかと考えています。
それは、書くことの方が、話すことよりも、その内容を構造化させなければならないということです。
話すときには、主語と述語がかみ合っていなくても、それどころが、文章として完成してなくても、大丈夫なのです。話し言葉で特徴的なのは、文章の最後と濁すような話し方があります。言い切らなくても、途中までいえば、相手は分かってくれるのです。逆の言い方をすれば、このようなやりとりには誤解がつきものなのですが、話すときにはあまり気にならないということなのでしょう。
または、「分かるでしょ?」とか、「分かっているわよね?」などのように、内容をまったく伝えないで、内容を伝えた気になることもできます。
書き言葉では、これらのことはあまりできません。文章を途中で切ることは、まったくできないわけではありませんが、それはそのように表現することの方が書き言葉で伝わるときに限られます。また、読み手が目の前にいるわけにはいないので、「分かっているわよね?」などと書くわけにはいきません。
もっとも、専門書だけに限らず、読者が限られている文章を読むと、「この言葉は説明しないけど、分かっているわよね?」という前提の元に書いているものがあります。書き手がその前提を踏まえていることを自覚しているときには、それでも読めるのですが、その自覚がないときには、門外漢にはちんぷんかんぷんということになります。
つまり、書き言葉では、文章として最初から最後まで書ききる必要があります。それには、主語の選択、語尾の選択など、話すときにはあまり意識しないところが含まれるのでしょう。
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書くときに、文章として構造化させなければいけないのは、その場の文脈に頼ることができないからです。
話すときに、相手がよく分かってくれる人であれば、大幅に説明を省くこともできます。逆に、大幅に説明を加えないといけない場合があります。つまり、自分の発語が相手に依存して、変化してくるのです。
書き言葉では、その文脈は想定するしかありません。この程度なら分かってくれるだろうかとか、もっと説明を加えたらいいのだろうかということを想定しなければならないのです。その想定をすることが、うまくいかない場合、どこから書いていいのか分からないでしょう。
つまり、何を書くのかという選択は、何を書かないのかという選択をするということです。
そして、話し言葉は、その場で消えてしまいますが、書いたものは、ずっと留まるのです。その事を考えるだけで、慎重になってしまう人もいるのでしょう。
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このように見ていくこと、話すことよりも書くことの方が明らかに要求されていることの方が大きいと言えそうです。
書くことは練習を重ねることによって、何とかできるようになっていくものです。話せるから書けるのだという思い込みをしないようにしなければいけないのでしょう。
書く内容を構造化させる練習をどのようにしたらいいのか、少し考えてみたいですね。