私がスタタリング・ナウ(№248)に投稿した「吃音とナラティヴ・アプローチ」を読んで、友人からまとまった感想を頂きましたので、紹介します。
スタタリング・ナウ(№248)~吃音とナラティヴ・アプローチを読んで~
「支配的なディスコースは真実を伝えているわけではない」。つまり、ここでは「常識」は権力を持っており、本物かどうか疑う必要がありそうだと言われているように感じます。 だいたい、「常識」とはどうやって作られて私たちの生活を支配するようになったのでしょうか?そんなことを、この一文で考えさせられました。
一方で、「真実」とは何か?ということを考えさせられました。「1+1=2となるぐらい、場所が変わろうが、時代、文化が変わろうが、変わらないものを指してほしいものです」永遠に変わらないものってどのくらいあるのでしょうか?
私たちはせめて「社会というものは作られてきたものであり、『常識』とか『真実』もそのつくられた社会のセットにすぎない」ということを知識として知っておきたいものです。
しかし、私たちは社会的動物という点では、他者の評価によって平常心を失ったりします。以上に述べた、知識があったとしても日常生活の中においては、ふと忘れてしまっていることが多いものです。他者の評価に動揺しなくなったら、それこそが「悟り」の境地というものかもしれませんが、なかなかそこにたどり着くには、かなりの年数がかかるかもしれません。そんな折、自分の抱えている問題を外在化し、「その問題を懲らしめるための方法を一緒に考えましょう」というのは、実にユーモアがあり問題に対して客観視でき、問題と付き合っていくことができるのではないかという期待に導かれます。
支配的な関係性の中でつくられたディスコースが、柔軟性を含んだ関係性によって、様々な可能性を発見し、生み出していくといった印象を持ちました。 ここから、私が学んだことは、私たちの日常は、「常識」というものに囚われており、その「常識」の囚われから解放されると、より自分らしく、穏やかに過ごせるのではないかということです。
福﨑英子