「日本の反知性主義」を友人から借りて読みました。ニュージーランドにいると日本の本を読むペースが落ちます。この本は読んでよかったと思っています。
反知性主義とは
私はこの言葉を知りませんでした。内田樹は、冒頭の説明で、この言葉は、リチャード・ホーフスタッターの「アメリカの反知性主義」(田村哲夫 訳)から借用したと述べています。
何が反知性主義であるかについては、説明しにくさが伴うのでしょう。定義的な説明はありません。この本に貢献している著者たちも、その言葉の得体の知れなさに少し手を焼いているように感じました。
私が本を読みながら理解したのは、反知性主義とは、知性がないということを示すのではなく、持っているもの(知識や学問など)を知的なものとして利用していないという事態を示しているということです。つまり、知識や学問などを、端から見れば十二分に持っている人たちが「反知性的」になり得るということを示唆しています。
私は、お偉いさんに向かって「馬鹿者」と言いたくなるときにこの「反知性的」という言葉が使えるのではないかと単純に思いました。
反知性主義の語りにくさ
この主題には語りにくさが伴います。つまり、同じ学者のみでありながら、「自分は違うけど、やつは反知性主義である」という語り口で語るとき、それは、実に反知性的な姿勢であると思えるからです。自分を除外する態度、自分ことを振り返ることができないことをさらけ出すことは、反知性主義を語る人の語り口としてふさわしくありません。
さすがに、内田樹さんが依頼した寄稿者は、この「罠」にはまることなく、この点を論じることができていると思います。それは、著者が、自分というものを絶えず意識して書いているかどうかという点で判断できるでしょう。
知性的であることと、その場の集団に対して影響力を持ちうること
政治家やビジネスマンを成功する、あるいは広範囲の影響力を持っているということは、真に、知性的な活動から生じることはないと、本を読んで思いました。それよりも、大胆な空想をあたかもできるのかのように振る舞える人が、確率は少ないにしても、成功を手にすることができるのではないか。知的な、つまりは、いろいろなことを想定し、多様な視点で考えるという姿勢は、原動力という点では、反知性的な姿勢に劣ると言うことです。
この本を読んで、現代社会にはびこっている反知性主義を、反ー反知性主義(これを、知性主義とはいえない気がする)でもって、対応する人々がより多く出てきてくれることを願うのだが、そのような人々が社会を揺り動かすような原動力にはならないのではないかと思ったりするのである。
なぜならば、知性的な立場に経つ人たちは、反知性主義的な立場からの利益すら酌み取ることができると思えるからです。
この本は、反知性主義に対するカウンターアクション(対抗措置)として書かれています。そして、その方向性の行動に参加してくれる人たちがより多くで来ることを願っています。しかし、知性的な立場の人たちの集合が、かならずしも反知性主義に対するカウンターアクションに結びつくことは難しいのではないでしょうか? じゃあ、どうすればいいのか? ごめんなさい。私にはわかりません。
その文脈にいたために、結果として反知性的にならなかったという解釈の問題
昔は、まわりの状況がこのようであったので、反知性的主義的な行動をとらずに済んだという指摘は、今後、この問題をどのように取り組んでけばいいのかという糸口は与えてくれません。
それは、その場に流されながらしたにすぎないという姿勢であり、結果論的には反知性主義ではなかったのかもしれないが、その場その場を生きていく人々に対する示唆にはならないのです。
また、過去のそれが反知性的ではなかったという解釈は、現代社会の事象に対する比較から生じた「解釈」です。
それでも、この問題は重要だ
それでも、反知性主義がはびこっていることはたいへんな問題であると実感できました。この論じにくい主題を言葉にしてくれたことに感謝です。
お薦めです。