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「好き」「嫌い」の孤立性

 好きなものや好きなことがあり、また好きな人がいる。逆に、苦手なものや苦手なことがあり、また苦手な人がいる。

 会話中で、その理由を求められることがある。

 「なぜ?」

 「なぜ好きなの?」「なぜ苦手なの?」

 このように聞かれたことは誰にでもあるのであろう。

 たとえば、嫌いな食べ物を前にして、なぜ嫌いなのときかれる。「なぜその野菜が嫌いなの?」 「何で○○を食べられないの?」 ちなみに、わたしは梅干しが嫌い。そして、銀杏が好物。

 

 このような問いに対して、しっかりとした答えをもっている場合もあるだろう。しかし、このような問いに、相手が満足とは言わないまでも、まあ理解してくれるような答えを探して、答えとしている場合もある。それは、自分の中にあるものを表現しようとしているというよりも、当たり障りのない答えを探しているしている、と言えるの場合が往々にしてあるのではないだろうか。相手が納得してくれそうな答えを事前に準備している場合だってある。

 

 自分のことなので、「なぜ好きなのか」「なぜ苦手なのか」わかってると思い、尋ねるのだろうが、自分でもわからないことはあるはず。

 

 そう。好き嫌いに理由なんてない。理由は後付けだ。理由は、人のために用意される。

 

 好きになるときには、好きになる。理由があって好きになるとは限らない。

 

 大体、決まりきったようなことについては、みんな「なぜ」とは尋ねないだろう。「なぜ肉が好きなの?」 とは。当たり前のことについては、その回答そのものをすんなり受け入れるのだ。つまり、答えを求めるときは、多くの人が当然のように好きなものを食べられないときのように、少数派の意見に対してである。 

 

 このような問いかけに対して、いちばんシンプルで、いちばん自分の気持ちを表していると思うのは、「知らん」「自分でもわからない」である。この答えの意味するところを、しっかりと受け取ってくれる人に巡り会いたいものだ。

 

 因果関係がつながることの気持ちよさを経験したいのだろう。その因果関係がシンプルであればあるほど、そしてドラマチックであればあるほど、人はその関係性を知ることに満足感を覚える。それが複雑系の中で生じたものという理解は、面倒くさすぎるし、わかった気がしない。そして、他の人に伝えることもできないだろう。

 

 相手が求めている答えを提供することはいとわない。たたときに、その複雑系を提示して、相手がどのような反応をするのか試したくもなる。往々にして、相手の戸惑うのを申し訳なくなり、シンプルな答えを提供することになるのだが。

 

 複雑系の話ができるようになっておきたいと思う。

 

Bubbles