オープンダイアログの関心が高まっているようである。これが、私の近辺でことだけなのか、それとも相当の広がりを持つものなのか、日本のコミュニティにそれほど関係があるわけではないのでわからない。
まだしっかりと全貌を把握しているわけではないが、ざっと展望してみて、感じていることがある。それは、心理療法のあり方全体に関わることだと思う、オープンダイアログの進め方に感じる可能性である。
どのような専門職においても、いや、どのようなグループにおいても、すべての人がすぐれていると見なされる技量に達することはありえないと考えている。その中には、技量の優れたものもいれば、たいへん申し訳ないが、ある程度劣っていると見なされてしまうものもいる。
このため、そのグループでさまざまな研修をして、全体の底上げをするように努めているのが常である。ところが、このばらつきが解消することはないだろう。
もし技量というものが、完全にマニュアル化されるものであれば、当然、すべての人がある程度以上満足のいく技量に達することが可能である。たとえば、ファーストフードでの挨拶の仕方である。見事なほど、そして奇妙なぐらいに、均一がとれている。
ここでの話は、心理療法というマニュアル化できようもないはずのことである。どんな手法を使おうとも、相手に合わせていく必要がある。その間合いの取り方、発語の選択、相手のどの話を取り上げるのかなどは、その人が自分で学習していくほかない。それはその人の感覚を持ってしか学習できないものである。
そして、このような学習の性質上、個人差が生じる。このばらつきは、その人がひとりで仕切らないといけない心理療法の場では、利点となることもあれば、足を引っ張ることもある。完全なセラピストなんていないので、その度合いで、心理療法の進み具合に差が生じてくるのであろう。
そして、その度合いは、経験や訓練によってある程度改善することはできるだろうが、ひとりで仕切るときに不安を残してくる場合がある。このような不安は、申し訳ないが、目をつぶっているわけにはいかないことがある。
オープンダイアログでは、ミーティング形式で進めていく。その場では、当事者、当事者にとって重要な人々(家族・友人など)、そして、さまざまな職種の専門家が話し合いをすすめていく。そこでは、バフチンのいうポリフォニーが重要視される。ポリフォニーとはさまざまな声が存在することである。
つまり、そこでは、技量のばらつきというものが、ひとりで仕切ることを前提とする物差しで推し量られるのではなく、多様性を提供することを前提とする物差しで推し量られるとすれば、そのばらつき自体こそがたいへん重要な要素と認められるのである。
そこでは、違う見方、異なった方向性、別の言葉遣いなどを提供できる人の存在を、有意義なものとして認めることができるのではないだろうか。そこでは、このようなばらつきに対する評価がまったく違ったものとなるのではないだろうか。
つまり、この構造が治療としていかに有益であるかという視点で検討することと同様に、この構造がどのような影響を治療者にもたらしてくれるのかという視点で検討することも重要となるのではないだろうか。そして、私たちが、スーパー・セラピスト、またはマスター・セラピストになることができずに、常に自己嫌悪に陥るような枠組みから解放してくれるのではないかという可能性を感じ取っているのだが、はたして、本当にそうなりうる可能性を秘めているのかどうかもう少し勉強していきたい。