Postmodernism and Japan
私が勉強したカウンセリングはナラティブ・セラピーといいますが,理論上ポストモダニズムに分類されます。モダニズムが科学的根拠に基づいたアプローチですから,精神分析,行動療法,認知療法などがこのモダニズムに分類されます。ポストモダニズムの大きな原動力は,このモダニズム的なアプローチに対する批判です。たとえば,ADHDが存在するか,存在しないかは我々の持っている言語によるもので,科学的な真理に基づくものでは無いというものです。ですから,アプローチとして,ADHDという言葉にとらわれずに,本人の可能性や能力を見いだし,そこにまつわる話をベースにして,本人を悩ませている問題を乗り切っていくことになります。
この説明から,人の可能性を見いだすことは,モダニズム以前にもあったアプローチなのでモダニズム的な理解が不要だという考えが生じます。一時期,私もその可能性を考えていましたが,それがなかなか難しいものであると感じています。
モダニズムの利点を考えると,たとえば体内の分泌物の異常であるという理解,またはDNAの影響であるという理解など数限りなくあります。カウンセリングにおいてこのような理解は,子供に,たとえば,ADHDというレッテルを貼るという欠点を認めつつも,「親の教育が間違っている」「愛情不足」「子供に忍耐力が欠けている」など家族,母親,そして本人に原因があるという批判を免れることができるという大きな意味を持ちます。そして,「ではどのように対処していこうか」という実質的な話をすることができます。
しかし,日本でカウンセリングをしていて,いろいろな症状で悩んでいる子供たちがこのモダニズムの目にさらされずに,それが逆に苦しみを与えているのでは無いかという危惧を抱いています。たとえば,場面緘黙の子供に発語を強いたり,学習障害の子供に他と同じような勉強方法を継続したり,チック症状が出ている子供に静かにしろと言ってみたりと,枚挙にいとまがありません。このような考え方を支えている言葉をあげるとすれば,「やれば出来る」「頑張る子」「普通は○○だよ」などがあります。
このため,モダニズム的な理解(疾患としての理解)をきちんとしてもらうことを勧めなければなりません。この部分は,私のカウンセリングの中では本質的な部分とは考えていなかったものですが,この部分なしに先には進まないものもあり,ここで立ち止まってしまったりしています。たとえば,自閉症的な傾向のある子に,集団生活をまわりと同じようになるように希望することなどです。
また付け加えれば,私の望んでいるモダニズムは,それなりの水準を希望しています。受診して,私もよく理解できないような病名をもらって来たり,小児のレベルとしてはかなりの分量の薬ももらってきたりもするので,日本でモダニズムを安心して勧められないというジレンマもあります。
「では,私がどうすればいいのか?」という自分への問いかけをしてみますが,よく見えてきません。