家族療法研究(Vol.26, No.2 2009)に、「ナラティヴ・アプローチの現在」という特集が組まれているで興味深く読んでみました。
まず、「ナラティヴ・アプローチの10年」というタイトルで野口裕二氏がナラティヴの推移を検討していますが、過去の5年間を「成熟と停滞」と見なしています。成熟してきている根拠として、単なる紹介にとどまらない文献が出てきていることをあげています。また、停滞と見なすのは、「ナラティヴ」という言葉そのものの「新味」がなくなっていることをあげています。
この点について、私の感覚と一致しているように見なすことができない部分が含まれています。単刀直入に言えば、「成熟」するまでにナラティヴが浸透しているとは到底思えないと言うことです。「成熟と停滞」ではなく、導入が挫折しかかっているのではないかという感覚の方が強いです。
ナラティヴを少なくとも英語圏で使用されているNarrative therapyまたはNarrative approachとして理解されているかどうかも不確かな状態で、成熟はあり得ないでしょう。一番良い例として、ウィキペディアの日本語と英語の記述の仕方を比べてみてほしいです。
また、「臨床上の課題」として、「構成か実在か」「ナラティヴ・ベイスドかエビデンス・ベイスドか」「適応と禁忌」「記述の問題」をあげていますが、どれもナラティヴを推進していく上での大きな障害になることであるという、認識が持てません。
ナラティヴの浸透を拒んでいるのは、「ナラティヴ」だけを拒んでいる種類のものではなく、比較的新しいものそれが十分に議論され、発表されてきているものでさえ阻んでいるものであるという視点を持ちたいと思います。それは、文化的なものなのではないかととさえ思ってしまうのです。論理性や合理性、またやエビデンスを超えたところでなされる判断、取捨選択、変容がおこなわれるのではないだろうか、という懸念です。この部分を乗り越える難しさは、ナラティヴだけの話ではないでしょう。
ナラティヴを浸透させていくときに一番単純にアピールできる点は、相談にきた人と言葉をやりとりしていくカウンセリングやセラピーという場において、ナラティヴの発想が言葉を紡いでいく助けをしてくれるという、非常に直接的な利点であろうと思っています。これを、アピールするためには、一番手っ取り早い方法は実際にやってみせる、実際にそのやりとりを感じていくと言うことに他ならないでしょう。
そして、この点にきて日本の心理臨床または精神医学のに対する本質的な疑念から、私は逃れることができません。それは、実際に言葉を紡いでいく過程を他の臨床家にみせていく行為は、その技法にかかわらずどの程度の臨床家たちがこなすことができるのでしょうか? 少なくとも私はジョン・ウィンズレイドやウォーリー・マッケンジーがクライアントと言葉のやりとりを見る機会がありましたし、そのときに私もこのようになりたいと感じたのです。この感覚を相手に与えること、これだと思います。