日本という特殊性?

日本という特殊性 日本文化、そして日本人の独自性についてはいろいろな人が語ってきています。この独自性と特殊性とはほぼ同意語であるとすれば、いま人生の上に置いていろ いろな問題に直面しているとき、その人が悩んでいるのは、本当に本質的なものなのか、それとも日本地域限定の問題、またはこの時代特有のものなのか、また もしかしたら、だだみんなが思いこんでいるだけなのか区別しておく必要があると思っています。

たとえば、学力に関してですが、私は10年近くインドの貧しい子供たちの医療援助・教育援助に関心を寄せてきましたが、ここで教育の重要性を 感じていたのは、いわゆる「読み・書き・そろばん(四則計算)」と保健衛生です。この意味で言えば、日本の教育はもうその目的をクリアしていると言うこと になります。  学校に行けないということも、インドのようなところでは問題としても浮上してきません。なぜならば、経済上の理由で学校に行くことができないという子供 たちがあまりにも多いからです。世界的な規模で、学校教育をきちんと受けることができる人たちは、今でも「当然」ではありません。

1999年時点で、小学校に通うべき年齢にありながら学校に通えない子どもは1億2,000万人いました。内訳 は53%が女の子、47%が男の子です。1990年よりも男女格差は縮まっています。出典:ユニセフ(2001年) 世界全体の小学校純就学率・出席率は、1990年の80%から1999年には82%に上昇しました。出典:ユニセフ/ユネスコ(2001年)

この統計は、中学校教育・高等学校教育のレベルになるともっともっと落ち込みます。逆に言えば、ユニセフでも焦点を当ててみている教育は小学 校教育です。  ところが、日本のような環境にいるとこのところが見えてこないですね。あたかも自分を除くすべての人が人生を順調に送っており、自分だけがこのような問 題に陥っているかのように思ってしまいます。そして、いつも悪いのは自分のような気分になってしまいます。

学校のシステム、社会のシステムは、人間が作ったものです。人間が作ったものに完全なものなどありません。人間が作った不完全なものに適合できなかったからと言って、自分自身がすべてにおいて良くないと思う必要は全くありません。

周りと同じことをすることが「正しいこと」「良いこと」になってしまったら、皆が間違えているときに、「ちょっと待ってよ、それって本当な の?」と疑問を投げかける人がいなくなってしまいます。クラスの皆がいじめ、または無視などの方向に向かっているときにも、周りがしていることをしない人 が望まれるのです。

日本の特殊性の中に、和を好むことがあるとよく言われます。このために、戦後、「一丸となって」高度成長を続けることができました。しかし、 我々は忘れてはならないのは、このために「一丸となって」第二次世界大戦のような集団自殺に入っていったのです。これからは何が正しくて、何が正しくない のかを自分で考えてほしいと思います。そして、周りがしていることができないと言うことだけで、自分の評価を見誤らないでほしいと願うばかりです。 (ちょっと補足ですが、日本の特殊性・独自性というのも、一種の錯覚の上に成り立っていると思っています。多くの人がそうであると言い、多くの人が異論を 挟まないので、この概念がより強くなりってきていると思います。しかし、この日本にもいろいろな人がいます。いろいろな生き方をしています。いろいろな考 え方を持って生きています。一つの概念でその国民はもとより、その人を包括できるわけがありません。もう少し周りに目を向けて、実際はどうなのか観察し て、自分なりに考えてみてください。)