「それについて語らずにいられない」

自分の感覚器官で取り入れたものを、言葉にして出さなければならない欲求を強く感じるときがある。

内田樹の本「昭和のエートス」を読んでいて自分なりに言っておきたいと感じたことがあったの書き付けておきたいと、パソコンに向かったのではあるが、まずは、言葉に出さなければならないという欲求そのものについて書いておかないと気が済まないと感じたのである。よって、以下の文章は、そのことについて。

我ながら、面倒くさい性格だと思う。

 

昭和のエートス (文春文庫)
昭和のエートス (文春文庫) 内田 樹

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内田樹の最近のブログに次のような記事がある。宮崎駿の新作『風立ちぬ』を見た後での感想を書いた記事である。

 

「それについて語らずにいられない」という印象を残すのは間違いなくよい映画である。
それはその反対の映画を想像すればよくわかる。
よい映画の対極にあるのは「その映画を観たことをできるだけ早く忘れたくなる映画」ではない。「その映画を観たことを忘れるためにいかなる努力も要さない映画」である。
小津安二郎の映画や、ジョン・ウォーターズの映画や、デヴィッド・リンチの映画を観たあと、私たちはじっと黙っていることができない。
何か言わずにいられない。
とりあえず何か言っておかないと、自分が何を観たのかわからないまま宙づりにされていて、気持ちが片づかないのである。
何かを言っても、それで映画を説明したことには少しもならないのだが、それでも、とりあえず一言でも言っておかないと気が済まない。
そのあと自分がその映画についてもう一度語るときに「取りつく島」がない。
その「取りつく島」をあとになって「あれは勘違いだった」と否認しても少しも構わない。
とりあえず、それを否認することで、その映画について私たちは二度語るチャンスを手に入れるからである。

http://blog.tatsuru.com/2013/08/07_1717.php

 

語らずにいられない場面という状況において、それが、自分の理解を深め、発展させてくれるような ものであれば、願ってもないことになる。そのことで言葉にしたことは、自分の中に取り込まれていることになると思えるからである。

はき出すときに、それが切羽詰まった状態であれば、相手は誰でもいいと思える。相手が自分のことを理解してくれそうかどうかなんて問題ではなく、相手かまわず、しゃべっておきたいのである。幸いにも私には、そのような話が出来る相手が何名かいる。そのときに、たぶん私が何を言おうとしているのか分からないのではないだろうか。

自分も何かまとまっているものをはき出したいのではなく、はき出しながら、出てくるものを確認しているのだ。はき出した後、それは留めるべきではないと思える場合には、どこかに行って戻って来ないという状況も当然ある。また、自分が言おうとしていたことが、しっかりと確認できた場合には、その場においては、その言葉で描写された形で収まっていくのである。

なかなか出会うことがないが、自分の言おうとしていることを、自分には持ち合わせていない言語、表現、領域と関係づけてくれるときがある。これが絶妙のタイミングで自分の生じるとき、相手に感謝したくなるものである。

 

逆に、この状況のときに、たぶん最悪のシチュエーションは、はき出させてくれない人に巡り会うときであろう。自分がうまく形作ることが出来ていないことについて、もっと言葉を引き出してくれるどころか、自分の未成熟な言葉尻を捉えて、意見を申し立ててくる場合である。この時に、自分が言いたい部分を言えないフラストレーションと、自分ではそれが自分のしっかりした意見であると言えないことに対して批判をもらい、反論したいが、それもうまくできないフラストレーションを抱える状態に陥るのである。この時には、泣きたくなる。私は酒を止め、今では、一切飲まないが、酒でそのことを処理している脳を麻痺させ、しのぎたくなる気持ちになるのは理解できる。

 

このような手段を持ち合わせない人はどうやってこのような状況を乗り切っているのであろうか。このようなときに「孤独」を痛感するのではないか。

 

心理カウンセラーとして、私は、その人が声に出してみないと消化出来ないようなことをしっかり聞いていきたいと思ってる。早急に相手の気持ちを、相手が言っている言葉で理解してしまうのではなく、そのように表現する過程でどこにたどり着きたいのかについての見通しを持っていきたいのである。

 

東日本大震災の後、「それについて語らずにいられない」という気持ちになって、実際に語ってくれた人に出会った。まさしく、いろいろと、とりとめもなく語ってくれた。時系列もばらばらである。脳裏に浮かび上がった順に言葉にしているという状況なのであろう。それが、いけないのではなく。そのようなものなのであると言うことである。この時に、理路整然と話すことができるものと期待しているカウンセラーがいるとすれば、その幻想についてしっかり検討しておかなければならない。

 

ところが、心理カウンセラーが、「悩みがありませんか?」「相談はありませんか?」という姿勢で相手に接するとき、相手は一気に「それについて語らずにいられない」という情熱は消え失せ、「いいえ、私は大丈夫です」と言ってしまう可能性があることにも気づいた。

このダイナミクスについては実に興味深い。心理カウンセラーの発語や態度が、その発語や態度は相手の立ち位置を規定してしまうものであるが、相手の話を引き出したり、封印したりすることが出来るのである。

つまり、本当は話したくて仕方がないという状況なのに、ここでは話してはいけないと感じてしまうのである。心理カウンセラーとしてこれほど残念な結末はないであろう。

 

相手が話せるのか話せないのかは、私たちの言葉かけ、態度、どのような話を求めているかにかかっている可能性があるということ。その可能性がある以上、そのことを検討しなければならないということである。そして、その可能性を十分検討しない前に、相手に否認があるとか、抵抗があると理解してないいけないということである。

 

はあ。今日語っておきたいことを言葉にして、自分の気持ちが少し落ち着きました。「ブログに投稿」ボタンをクリックして別の作業に取りかかれます。

内田樹の本「昭和のエートス」を読んでいて自分なりに言っておきたいと感じたことを書くことができるかどうかについては、自分でもよく分かりません。でも、書いて起きたい気持ちがあるので、書けるはず。たぶん。

 

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