自分をどこに位置づけるのか

文章に向き合うときの自分の姿勢

自分のこととして読むこと

文章を読んでいる時に、その文章が伝える内容に対して、自分をどこに位置づけるのかによって、その内容がまったく異なったものとなる。

例えば、心理カウンセラーに対する批判があったとしよう。その批判を自分のことして読む場合と、「他のカウンセラー」に対してのことであるとして読む場合では、まったく伝わってくる内容が異なるということである。

前者の場合、その文章が伝える内容が自分の実践に照らしあわして、チクチクしたものとして伝わる。時に、素直に内容を受け取ることすらできずに、言い訳じみたことが自分の脳裏に浮かび上がってくる。

また、時には、そのことで落ち込んだり、めげたりする。やはり、いろいろな点で自分の臨床能力は未熟であると思うのである。「自分はまだまだ」だと。

人のこととして読むこと

逆に、その批判を人のこととして読むことは、まあ、気が楽である。「そうだ」「そうだ」と相槌を打ちながら読める。

どれほど辛辣な批判が書かれていても、人のこととして読んでいる限り、自分のうちに辛さを取り入ることは(あまり)ない。

この時に、自分のことに照らし合わせてかんがえることもしていないのであるから、自分がその批判に対して、「例外」的存在であるかなどといった考察に身を委ねることもしないのであろう。

まったく他人事として考えているということだ。これは、自分のこととして考えるべきか、人のこととして考えるべきかを検討し、選択した上で、その立場を選んでいるのではない。無意識的に選択しているべきであると思っいたほうが良さそうであろう。

この立場を少し弁護しておくのであれば、私たちが人生を生きていく上で、結構大切な能力であるとみなしてもいいだろう。ありとあらゆる批判を、自分のこととして受け取るのは、なかなかつらい。適当に流すためには、他人事として、流すべきだのだ。

文章に他人事である雰囲気を醸し出すとき

人の文章を読んでいて

人の文章を読んでいて、ある種の批判があまりにも無責任であると感じる時がある。

文章の書き手が、自分の書いている批判に対して、自分との距離をあまりにも遠くにおいている時にそれを感じる気がする。

つまり、文章の書きてさえも、他人事として、その批判を作り上げているのだ。

このような雰囲気を醸し出すような表現があるかもしれない。

他人事であると醸し出すような表現

典型的な表現として思いつくのは、「一般的には」「普通は」「常識では」といった表現ではないだろうか。

このような表現を使って何かを人に伝えたくなる場合には、要注意である。無難な文章で持って、何か本質的なことを考えずに、ごまかしている時である可能性がある。

そして、書いている自分自身の言葉ではないという逃げの姿勢が含まれる。

人にあまりインパクトを期待できない

そして、残念なことに、そのような文章が人に何らかの影響を強く与えることはないのではないだろうか。

少なくとも私は、真剣にそのことを受け取ろうとはしない。

自分のこととして読むことを自分に強いるとき

普段は、他人事のこととして聞いているようなことでも、時には自分のこととして、読むことを自分に強いるときが必要なのではないだろうか。

このことは自分に当てはまるのではないだろうか。このことに、自分はどのように取り組んでいるのだろうか。このようなことを自分に問うことである。

時に、したくない。自分の臨床の欠点、未熟さなどに向き合うことである。または、自分がむとんちゃくであり過ぎたことに向き合うことである。

しかし、しなければならないのだと思う。

ところが、いつしなければならいのか? どの程度、しなければならないのか?

回答があるわけがない。しかし、避けて通るわけにはいかないのだ。

自分のこととして読むとき

日本人は内省が好きである、と思う。とにかく反省する。

私はこの姿勢があまり好きではなない。なぜなら、反省することが、その目的になってしまっていると感じる時があるからである。

反省そのものは目的であるはずがない。

反省してから、どのようなことにつなげるのかが、専門職につくものが問われていることであるからである、と思う。

そのため、自分ができていないこと、しなかったこと、不十分なことと探るということだけに十分な時間をさくべきではなく、それにどのように取り組めるのかに時間をさくべきだろうと思う。

 

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