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言葉の持つ影響力ー形容詞の使い方によって

言葉の持つ影響力ー形容詞の使い方によって

自分の感覚をその言葉が示すように変えること

今、若いころのことを思い出すと、人の書いている文章や言っていることを、そのまま受け取り、それを自分の感覚としてしまっていたことに気づく。

たとえば、自分の好きな作家がいう言葉をそのように思い込み、その真似をしたり、それがあたかも自分の感覚であるかのように、人に伝えていた。わかったようなふりをして話した経験は誰にでもありそうである。

一時期、開高健の作品を読みまくっていた頃は、自分も同じように飲み、開口健が表現するような味を自分が味わっているかのように、人に伝えていた。

蒸留酒のこと、日本酒のこと、ワインのこと、今思えば、どれほど自分自身の舌で味わっていたのかわからないが、自分もそのように感じているのだと、信じるように考えていたのだと思う。

また、当時、アイドルの音楽を素直に聞くほど、性格が素直ではなかったので、歌詞もよくわからない洋楽を聞いていた。それは、自分にとって、洋楽が本当に良いものだから、聞いていたのかどうか、今になってみれば怪しい。

そのように思い続ければ、そのようになっていくこと

人から借りた感覚を自分のことであるかのように振る舞い続けると、大変興味深いことに、そのようになっていくところがある気がする。

それは、その感覚対する慣れも生じるし、経験も生じるからかもしれない。そして、その感覚と他の感覚のとの違いもわかってくると思うのである。

たとえば、酒の味がわかるようになるというよりも、酒の味の違いを少し感じられるようになる。ウィスキーとバーボンの違い。別にどちらが旨いかということがわかるというのではなく、「差」が感じられるということである。

これが「味がわかるようになる」ということと表現することができるかもしれない。しかし、要は、自分の味覚が、非常に敏感になるのではなく、その周辺部の感覚を区別する力が出てくるのではないだろうか。

これを経験と呼ぶのだろう。

音楽も、よくわからない洋楽を聞き続けると、徐々にその音楽に慣れていく。以前聞いたようなメロディーが出てくると、懐かしみも出てくる。

すると、ここで興味深いと思うのは、人の感覚様式を、自分にも取り入れ続けると、徐々にそのようになっていくのではないだろうか、ということである。

伝えようとした人が、本当はどのように感じていたのかは問題ではない

ここで、言葉の持つ影響力を考えてみよう。

ある感覚を伝えようとした人が、たとえば、ある景色、音楽、料理、人物について、見事な表現を持って伝えてくれたとしよう。

その時に、私達の中には、そのことに対して、大変大きな期待を抱くようになる。あこがれと言ってもいいかもしれない。

007のジェームス・ボンドが、バーでドライマティーニをたのむのを聞くたびに、一度は飲んでみたいと思った。

探偵のエルキュール・ポワロが、ホットココアではなく、ホットチョコレートをたのむたびに、一度は飲んでみたいと思った。

すると、自分の中で、ドライマティーニ、あるいはホットチョコレートの評価がどんどん上がっていくのである。飲んだことすらないのに。

ここで重要な事は、私たちは、作者が本当はどのように感じていたのかを直接、その人の感覚で知ることができないため、その人の言葉を解釈して、理解しているに過ぎない。

伝えようとした人の書き方に左右される

すると、伝えようとした人が、文才に恵まれた人であったとしよう。その人は、非常にうまい表現を使って、そのことを「強調」して伝えてくれているのかもしれない。

あるいは、その人が、誰かに頼まれてそのように書いてほしいということかもしれない。

実際にそのような職業が存在する。

すると、私たちは、伝えようとした人が本当に感じていた感覚を問題にしているのではなく、伝えようとした人が記述した言葉、あるいは表現に反応しているのである。

素晴らしい味のラーメンでも、レポーターによって、口の中に湧き出てくる唾液の量は異なる。

言葉は、私たちを形づくる、とある程度言えるのか

このような点を加味していくと、私たちは、人が記述した言葉を自分のこととして取り入れ、それによって、自分の感覚様式、ふるまい方を変えてしまっているといえるのではないだろうか。

これはどの程度成立するのだろうか?

まず、この議論で考えておかなければならないのは、人の言うこと、書くことすべてに私たちは反応しているわけではないということである。

そのため、ある程度、自分に取り入れようとする領域を選択するという、「私」という存在が関与している可能性がある。

そのため、「私」の解釈が大きな要因であるとみなすべきであろう。その解釈はどのようにして、「私」の中に生じるのか?

この点において、あまり気の利いた説明をあまり読んだことがない。

この点こそが、「私」が他なる「私」とあらしめているところであると思うのである。

そして、この点が、社会構成主義でもなかなか扱えないところではないかと思っている。

言葉は、私たちを形づくる、と言い切れるほど単純には思えない

よって、社会構成主義の論旨から汲み取れるような「言葉が、私たちを形づくる」と、単純には思えない。

しかし、この点を無視して、すべて個人的な問題とするほど単純には考えられないのである。

 

 

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