社会構築主義からみる国語教育

昔から国語が嫌いでした。というよりも、国語でうまく点数がとれなかったのです。真剣に、作者の意図、「それ」が示すこと、適切な解釈を選ぶ四択問題などを考えてはみるのですが、正解となりません。

小学校時代から本は好きで読んでいました。多くの人が、国語ができるようになるため(国語で点数がとれるようになるため)には、本を読むことだと言ってはいましたが、本を読んでいる私にはピンときませんでした。

その後、司馬遼太郎が自分の作品のことについて、著者は良い読み手が必要であり、作品の価値は、書き手が半分、読み手が半分を担っていると、書いているのを読みなるほどと思いました。

そして、確か上野千鶴子さんだったと記憶していますが、国語は(著者ではなく)出題者の意向をくんで答えるのだと言っていました。このような言葉に助けられて、少しずつ、自分の言語能力に対する自信を回復しようとしているところです。

そのような中で、ヴィヴィアン・バーの「社会的構築主義への招待―言説分析とは何か 」という社会構築主義の本を読み返していると、次のような文章に遭遇しました。

究極的真理が存在しうるという考え方、われわれに見える世界は隠れた構造の結果であるという構造主義の考え方、これら両者の拒否が、ポストモダニズムにほかならない。(中略)文学批評ではまた、次のような考え方が結果的に生じた。すなわち、詩や小説の「真の」読み方は存在しえないし、各人の解釈は必然的にその次の人と同じぐらいもっともであり、原作者が意図していたかもしれない意味はしたがって無関係である、と。(p.20)

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国語教育には、このような視点を是非組み込んでほしいと思います。司馬遼太郎さんは、「昭和という国家」という本の中で、次のように書いています。

これは余談になりますけれど、もう十八、九年ほど前の話です。
ある朝、急に電話がかかってきて、あなたの書いた文章について聞きたい。この部分はどこそこにどのようにしてかかるのかと言う。
どこかの受験の塾からでした。
私の文章が東京大学かどこかの国語の試験問題になって、模範解答を大急ぎで書かなくてはいけないらしい。
難しい問題でして、
「そんなこと僕もわからない」
と言うと、ああそうですかと電話が切れてしまいました。
つまり、書いた者にもわからない問題の出し方をするのですから、だれでも国語ぎらいになりますね。
しかし、国語ぎらいになったら、日本人はどうなるんだろうと思います。明治から百年がたちましたが、まだこの程度かと思う感じであります。(p.86)

この話には私はかなり救われました。

「昭和」という国家
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